世良田忠順寄稿

平成16年 五月号
覚醒せよ、大和魂〜映画『ラスト・サムライ』によせて〜

 瑣末な批判は無意味
 この稿が出る頃には、惧らくブームも一段落しているであろう、話題となった映画『ラスト・サムライ』を、遅まきながら筆者も観た。
 日本人俳優が多く起用されているとはいえ、基本的に米国人が製作した映画であるから、おかしな部分も無いでは無い。実際、この映画を批判する声には「日本には存在しない植物が生えている」「古風なサムライなのに、なぜあんなにペラペラ英語を喋るのか」といったものや、「時代考証が出鱈目。なぜアメリカの軍人が日本軍の指導教官になっているのか」といった史実批判のようなものまで、実に様々である。しかし、そのいずれもが、筆者にはきわめて瑣末で、どうでもいいことに思えて仕方が無い。なぜなら、そんなチマチマした批判など、吹き飛ばしてしまうような圧倒的な力強さが、この作品には漲っていたからである。
 どんなに細部における時代考証が正しかろうが、根幹となるべき、その民族の時代精神を正しく伝えられぬようでは、価値など無いに等しい。この映画は、そういった凡百の駄作とは対照的に、細部に於いては問題ありとしても、大きなテーマである武士道そのものに対しては、きわめて真摯に取り組み、その優れた精神性を描き出すことに成功している。のみならず、武士道精神が、日本のみならず、世界的にも普遍的道徳に成り得るものとして、大変な敬意と哀惜の情を込めて描かれているのだ。
 惧らくは、この映画を観た日本人の殆どが、己の心の奥深くに、死んだように眠っていた“武士の魂”を、再び呼び醒まされるような気がしたのではないだろうか。

 「侍」の美意識
 物語は、「西暦一八七七年」を一応の時代背景として始まる。もとよりこれは架空の話であり、史実としてのその時代が描かれるわけではない。とはいえ、その年は、史上、最後の武士の反乱である、かの西南戦争が起きた年であり、 日本が欧米諸国に伍するべく、一から生まれ変わるための、激しい陣痛を迎えた時代でもある。多分、「武士道と近代国家との相克」というテーマを描くのに最も適した時代として、その年が設定されたのであろう。
 渡辺謙演じる「勝元」と、彼に従う「侍」たちは、常住坐臥、日々心身の鍛練に余念無く、常に心気を研ぎ澄まし、伝統を愛し、金銭を卑しみ、神仏を敬い、祖霊を祀り、常に与えられた持ち場で最善を尽くすことを本分とし、戦うべき時は身命を抛って戦い、たとえ敵であっても勇士は尊敬する、まさに理想的「侍」である。
 トム・クルーズ演じる南北戦争の英雄は、当初はそんな彼らを、近代文明を峻拒する野蛮人であるかのように感じたものの、彼らの住まう鄙びた聚落を、厳かな霊気と、深い精神性に満ちた、神聖な場所だと感じ、そこで共に暮らす内に、次第に彼らに魅かれ、感化されて行く。
 そうした中で勝元は、欧米化を推進する勢力によって、反乱の意志ありと見なされ、ついには討伐されることになってしまう。
 近代的装備で武装化し、圧倒的な兵力で押し寄せる政府軍に対し、勝元とその家臣たちは、馬に跨り、剣を手に、果敢に突撃を開始する。潔く散る覚悟を決めた、その凄絶な戦いぶりは、この映画の白眉だ。装備においても兵力に於いても、圧倒的優位に立っている筈の政府軍が、そのあまりの突撃の凄まじさに後退を余儀なくされ、本陣もあわやというところで、当時の最新兵器である機関銃が、次々と「サムライ」たちを薙ぎ倒していく。日頃の修練や鍛練も虚しく、可惜、蜂の巣にされていく武士(もののふ)たち。この銃弾の雨は、筆者には、崇高なものに対する冒涜に思えて仕方が無かった。勇士は、勇士にこそ討たれなければならない。それが侍の世界の摂理ではないか。これほどの勇者たちに対し、銃弾で、それも最新式の機関銃という兵器で応戦するなど、何という不遜な態度か!勇者は、勇者の太刀によってこそ斃れるべきなのだ!----そんな思いが強烈に胸を満たしたのも、見ているこちらまでが、いつの間にか、映画の中の「サムライ」的美意識にすっかり影響されていたからだろう。
 ついには射撃の指揮官が、上官である「大村」の命令を無視し、射つのを中止して、斃れ伏す侍たちの累々たる屍に向って脱帽、さながら神に対するかのように合掌する。兵士たちもそれに倣って土下座した。崇高なものに対し、畏怖と尊敬の念を忘れぬその態度は、現代人がとっくの昔に忘れてしまったものだ。近代装備の軍を率いていても、この指揮官と旗下の兵士には、まだ少しなりと、武士の魂が残っていたのであろう。

 冷笑的批判への反論
 映画が終わってもなお、私の心は、深い感動に揺さぶられていた。かくも「崇高さ」とか「魂の存在」を感じさせてくれる映画を見たのは、実に久し振りであった。
 帰宅し、さて巷の評判や如何にと、ネットの掲示板を眺めてみると、「感動した!」という声が圧倒的に多いものの、感動する人たちを冷笑するような、シニカルな感想も無いでは無い。冒頭に挙げたようなものを除けば、概ねこうした論調である。「あんな立派な武士なんか実際はいやしなかった。武士の殆どはろくでもない人間。この映画を観て“武士ってかっこいい”などと思うのは歴史を知らない愚者」「武士道なんて、表向きは立派なことを言っているが、あくまで建前に過ぎず、きちんと実践出来た武士などいない。その意味では聖書や儒教と同じ。実際には糞の役にも立たない、空疎で無意味な代物」----いやはや、何もシニカルが悪いと言うのではないが、これではまるで話にならない。何とも嗤うべき詭弁である。
 そもそも映画に登場している勝元という人物は、「最も武士らしい武士」として造型された、いわば象徴的存在である。別な言い方をすれば、かつて我が国に登場した、幾人もの「見事な武士(もののふ)像」が、勝元という一人の人格の中に、複合して登場しているのだ。ある人は、勝元の中に大楠公を見、またある人は西郷を、ある人は大石内蔵助を見る、という具合に、人それぞれが、好きな歴史上の英雄の面影を重ね合せることの出来る、勝元とはそういう存在なのである。したがって、勝元にそっくりその儘該当する人物が実在しないからと言って、「あんな立派な武士などいなかった」という話にしてしまうのは、あまりに滑稽と申す他無い。
 また、概して人間というものは、権威ある規範というものが無い限り、果てしなく放縦になり、だらしなくなる動物である。今の日本社会の堕落した腐敗ぶりを見るがいい。箍が外れ、規範を失くした社会が、どれだけ醜い姿になってしまうのかを、我々は痛感している筈ではないか。
 武士道には、確かに建前という要素もあったろう。しかし、そんな建前すら無いのが、今の日本だ。よしんば建前にもせよ、少なくとも「人間としてあるべき姿」「理想の人物像」を明示する道徳が、厳然と存在しているのといないのとでは、天地の差がある。何よりの証拠が、明治と平成の日本人の質の差ではないか。明治維新は言わずもがなである。
 映画に登場する侍たちの姿は、これぞまさしく「武士の鑑」であり、現実に、彼らのような人間になるのは、確かに至難の業だ。だが、せめてその境地に近付けるよう、日々努める姿勢が大切であり、立派な彼らに比して、己のだらしなさを謙虚に反省するよすがとなるからこそ「道徳」の存在価値がある。それを、実行不可能だから無意味だ、などと片付けてしまうのは、とても智恵のある人間の言葉とは思えない。それとも、一切の道徳や規範の無い、獣のような社会が理想とでも言うつもりだろうか。成程、それならば、武士道を毛嫌いするのも頷けるが、そんな社会は、もはや日本とは呼べまい。

 今こそ武士道教育を
 冷戦が終了して十余年、この期に及んで尚、平和ボケにうつつを抜かし、浮かれているようでは、近い将来、日本という国は消滅してしまいかねない。
 今こそ武士道を、日本の優れた道徳として教育の世界に復権させ、再生させて行く必要がある。
 その一環として、『ラスト・サムライ』を、文科省推薦映画に指定してはどうだろう。左翼イデオロギーに偏した反戦映画なぞよりも、こちらの方が、余程子供の教育に相応しい映画だと思うが、如何だろうか。

 複雑な思いも
 というわけで、すっかりこの映画を気に入ってしまった筆者であるが、その反面で、些か皮肉な思いも生じている。
 確かに、映画そのものは素晴らしかった。しかしながら、同様に武士道を賛美する映画が、もしも日本人の手によって作られていたとしたら、果たしてここまで話題になり得たであろうか。いや、その前に、そんな映画に資金を出そうというスポンサーが、果たして現れたかどうか。
 要するに、なぜこうした映画を、日本人の手で作れないのか。なぜ“ガイジン”が褒めてくれなければ、自分たちの持っているものの素晴らしさに、日本人はなかなか気づくことが出来ないのか。それらを考え合わせると、何とも口惜しい気分に陥らざるを得ない。
 また、先の大戦後、武士道精神を日本から奪い去り、徹底して死滅させようとした当事国から、再びそれを“認可”されたからといって、それを手放しで有り難がっていてよいのか、屈辱ではないか、という思いも、実は頭をよぎっている。
 白人という人種は、相手が動物であれ植物であれ、己の欲する儘、徹底的に狩り尽くそうとするが、いざそれらが絶滅の危機にあると知るや、今度は突然その「保護」に乗り出したりする。但し、あくまでそれは、自分らが制御出来るという自信があればこそだ。
 勘ぐれば、武士道もまた、絶滅寸前の珍獣同様、彼らにとって、もはや危険でも何でもない、天然記念物的な代物に過ぎない、ということではないか。それとも、戦後に予期していたよりも、遥かに日本人が腑抜けになってしまったので、これではいざという時に役に立たん、ちょっと括を入れておこう、とでもいう魂胆で、とりあえず「サムライ」を持ち上げてみた、ということはないだろうか。
 もとより、こうした思いが、多分に被害妄想的であるという自覚は、筆者にもある。映画を撮った米国人監督は、ただ純粋に、武士道というものに感銘を受け、共鳴もしたに違いない。そもそも、自助努力を怠ってきた責任は、日本人自身にあるのだ。ここは寧ろ、「素晴らしい映画を有難う」と礼を言うことこそ筋であり、「日本がこうなったのは、米国の占領政策のせいだ」などと今更言い出すのは、お門違いも甚だしいだろう。よしなき繰り言は、この位にしておこう。





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