世良田忠順寄稿
民主主義への懐疑〜衆院選雑感〜


 選挙を終えて
 衆議院選挙が終った。結果については、人によって様々な解釈があり、中にはそれなりの意義を見い出している人もいるようだが、生憎私はさして評価していない。社民党の沈没は、それなりに前進と言えるかもしれぬが、そもそもあのような売国政党を、ここまで生き長らえさせてしまったこと自体、慚愧に耐えぬことであって、当然のことを今更喜んではいられない。何より、政権与党の座を保った自民にせよ、躍進ぶりを指摘される民主にせよ、未だに腐るほど多くの売国議員を、その内部に抱え込んだ儘なのである。
 私は、今度の選挙の最大の争点は、我が国の安全保障であるべきだ、と思ってきた。端的に言えば「北朝鮮による拉致に、国家としてどう対処していくのか」である。にも関わらず、この問題について真っ正面から対策や政策を唱える候補者の、何と少なかったことか。
 いうまでもないが、拉致問題は単なる誘拐事件と異なり、国家の主権を犯す重大な犯罪行為であり、明白なテロ行為である。同時にそれは、国防問題も、憲法の問題も、戦後日本が目をそむけ続けてきた一切の問題がその中に集約される、一つの象徴でもあるのだ。日本がここまでおかしな国になったのは、国家の基幹ともいうべき国防を外国に委ね、自らは誇りも捨てて、ひたすら経済活動ばかりに邁進した結果である。それを国民に気付かせてくれたのが、皮肉にも北朝鮮の引き起こした「日本人拉致事件」ではなかったか。いわば、この問題を等閑にしてきた戦後半世紀もの日本のあり様を痛切に反省し、そして、今後はそれをどう劇的に変え、正しい国家のあり様として実現させて行くのかという、政治家の決意と覚悟のほどを判定するリトマス試験紙が、拉致問題なのだ。それなのに、殆どの候補者が口にするのは、年金がどうの福祉がどうの、経済政策がどうのと、目先の生活レベルのことばかり。何を呑気なことを言っているのだ。そもそも、国家とその国土が安全である、という大前提の上で、経済活動も、人々の生活や福祉もあるのではないか。ひとたび外国からの攻撃を受けようものなら、そんなものは忽ち吹っ飛んでしまうのだ。
 私は決して「経済なんかどうでもよい」などと言っているわけではない。ただ、一番の根幹を疎かにした儘、どんなに枝葉末節を微に入り細を穿って論じてみても、所詮は砂上の楼閣を築く愚劣さにも等しい、ということを言いたいのである。「マニフェスト」などという、またぞろ外来語を軽薄に流行させ、さも斬新なことを提唱しているかの如く見せかけていたのも気に入らない。イメージだけで国を動かそうとは愚の骨頂である。国会議員たる者、根幹となる「理念」をこそ第一に語るべきではないか。政策目標を数値化し、達成への目安とすることは決して悪いことではないが、国家の大目標とは、数値化されるようなものばかりではないだろう。数字に還元できるような、その程度の目標しか持たない政治家に、国家の運営など出来る筈がない。
 斯様に大局的な視点を欠き、小手先の技術論ばかりに終始している現下の政治家の姿を、さしずめ建築に例えるなら、肝心の基礎工事がいい加減な癖に、やれ設備が最新だの、外観や間取りがモダンだの、壁の色がお洒落だのと売り込んでくる悪徳不動産屋を彷佛させる。基礎工事がいい加減な家は、一見見栄えがよくても、数年を経ずして傾いたり水が漏れたり、様々の欠陥を生じさせるものだ。

 期待は“救国新党”結成
 あらためて政界をざっと眺めて感じるのは、これで何が変わるのか、という脱力感である。
 例えば民主党は、今後は二大政党制を定着させ、政権交代が可能な緊張感を常に政治に抱かせる、という。もはや自民ではこの日本を救うことは不可能、という絶望感を抱く向きにとっては魅力的に思えるかも知れぬ。確かに、戦後五十年以上も安逸を貪り、国家の理念を忘れて利権ばかりに群がり、それらを既得権として手放さないなど、数多の「しがらみ」にまとわりつかれて身動きが取れなくなっている自民党では、この先、日本を改善することなど二、三十年経っても無理、という予感は、程度の差はあれ誰しも感じていよう。日本を現在の体たらくにした責任も自民党にはある。だが、さぁそれなら民主の出番だ、とは言い切れないジレンマも存在するのだ。成程、自民に較べれば、既得権へのしがらみは少ないだろう。しかし、この政党に任せると、改革必ずしも改善となり得ず、逆に改悪にもなりかねない危惧を否定出来ないのである。何せ旧社会党の残滓が多く在籍している上に、この期に及んでなお、北朝鮮への経済制裁に反対しているような男を幹事長に据えている政党だ。党首の菅からして、靖国参拝を非難し、拉致実行犯の減刑嘆願に署名までしてみせる「間抜け」ぶりで、その歴史認識は東京裁判史観にどっぷり漬かり、およそ大和魂の片鱗も見受けられない。惧らく、多くの穏健な有権者は、自民には失望しているものの、ここで民主に変えてもっと滅茶苦茶にされるよりは、まだしも自民の方がまし、という消極的選択をしたのではないだろうか。拉致問題で男を上げた安倍晋三氏が幹事長になった、という“安倍人気”も手伝っていたであろう。
 だが、その安倍氏にしても、長年に亘る自民党のしがらみや、汚れ切った土壌を浄化するほどの力が、果たしてあるだろうか。私も安倍氏には期待したいが、現実は厳しい。自民には、ある意味で民主を遥かに上回るほどの売国奴が、隠然たる権力を持ちながら多数棲息しているからだ。橋本、河野、古賀、中山、福田らの徒は、まるで中共の走狗だし、野中は売国奴の王者、奸賊の最たる存在である。引退を宣言したとはいえ、その息のかかった僕(しもべ)どもは、今なお魑魅魍魎の如く跋扈しているのだ。かかる政党にあっては、油断すれば忽ち後ろから斬り付けられる。まさに「敵は内部にもあり」という困難な状況の下、果たしてどこまでできるのか、心もとないと言わざるを得ない。
 となれば、もはや手段はただ一つ、俗にいう「政界再編」しかあるまい。それも、密室でチマチマ為されるような、いかがわしい再編ではなく、端的にいえば、石原慎太郎氏あたりが党首となり、その下に既成政党から脱党した、真の愛国派が結集することだ。彼ら憂国議員から成る、新しい政党が登場することで、初めて日本は大きく変わることが出来よう。だいたい、拉致問題や国防問題に対し、似たようなスタンスを取っている民主の西村眞悟氏と自民の平沢勝栄氏とが、なぜ異なる政党に所属しているのか。政策や理念を同じくする者同士で結びつくのが、政党政治本来のあり方ではないか。仮に拉致問題以外の政策では隔たりがあるにせよ、国家にとって最も重要な政策は国防である。これに関する限り、二人にさほどの乖離は感じられない。かえって同じ政党の中に、正反対の考えを持つ人間がいるくらいなのだから、二人が手を組むのは、寧ろ自然の流れではないか。
 とにかく、現状の自民、民主のどちらも呉越同舟の観は否めず、政策繋がりというより、何か別の要素で繋がっている雑多な利権集団としか思えない。これでは、日本の閉塞感はなかなか打破出来まい。

 民主主義を疑え
 最後に、選挙の都度感じる思いを述べておきたい。
 まず、毎度の如く投票率の低さを嘆き、「皆さん、投票しましょう」などと拡声器で呼び掛ける愚行が行われているが、天下国家に無関心な者や、自分のことしか考えていないような者を、無理矢理投票所に駆り立てる必要がどこにあるのか。意識の低い連中が投票しても、選挙の質を劣化させるだけだ。放置しておけばいい。
 次に、投票資格を一律二十歳以上とするのも“悪平等”の一種である。憂国の情を持つ者の一票も、ただその場のムードに流されるだけの軽薄な大衆の一票も、全く同じ価値しか持たないというのは、大変な野蛮であろう。国家の舵取りを任せ得るに相応しい存在とは、まず基本に愛国心があり、そして不屈にして強靱な意志、優れた勇気と鋭い知性に恵まれ、遠大な理想を抱く「エリート(=選良)」でなければならぬ。しかし、とかく大衆というものは、日々の生活だけで頭が一杯であり、広く世の中のことや、多数の人間のことを考える余裕など無い。かかる人々からは、長期的視野や遠大な理想など生まれて来ないのである。だが、ともすると民主主義は、そうした“大衆の権化”のような存在を、「民の代表」として指導者に選んでしまう。民の質、所謂「民度」というものが低いと、政治家は当選したいがために大衆の御機嫌を取り結び、国の将来など二の次で、己の選挙区への利益誘導に腐心する。いわば、大衆のエゴイスティックな欲望の走狗となってしまうのだ。かくして腐敗が始まる。
 民主主義とは、そうしたポピュリズムの危険を常に孕んだ政治システムであり、有権者には、よりよい選択手段が如何なるものであるかを、不断に模索する努力が要求される。“懐疑なき盲信”からは、停滞と腐敗しか生まれない。民主主義への盲信は、民主主義を腐敗させ、やがてはその死を導くであろう。真に民主主義を大切に思うなら、まずは民主主義を疑うことだ。





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