世良田忠順寄稿
犯罪者の楽園〜激増する外国人犯罪〜


 日本は犯罪者天国
 本年九月二十六日に警察庁が発表した、今年度版の警察白書によると、昨年の刑法犯の発生件数が約二八五万件、摘発(逮捕、書類送検)された来日外国人は一万六千二百十二人(前年比一一%増)、件数は三万四七四六件(同二五%増)で、いずれも過去最悪。内訳も、強盗が平成八年から三倍近くも増え、兇悪化が目立ち、また、複数で凶行に及んだ割合が日本人の三・三倍に上り、組織化が進んでいるという。
 同白書に記載の外国人犯罪者の供述によれば、「日本の警察は絶対に殴らない。運悪く捕まっても否認していれば強制退去されるだけで済む」(シナ人) 「日本人はすりに対する防衛意識が希薄」「万一逮捕された場合も日本は刑が軽く、初犯であれば執行猶予で出られる」(韓国人) 「『日本は泥棒で簡単にお金を稼ぐことができる』と聞いたので来日した」(コロンビア人)……要するに、最悪捕まっても全然怖くない、というわけだ。外国人の食い詰め者が、大挙して日本にやって来るのは、その刑罰が手ぬるく、犯罪者にとって「ロー・リスク、ハイ・リターン」だから、という一面が、これらの供述によって、はっきりと浮彫りになったといえよう。
 また、白書に挙げられた数字は、あくまで逮捕・立件に至った件数から割り出されたものに過ぎず、なお多くの未解決事件がこれに加わることを考慮に含めれば、事態の由々しさに肌が粟立つ思いがする。

 「人権派」の圧力
 これほどまでに外国人犯罪が激増し、しかも兇悪化・獰猛化・組織化の一途を辿っているというのに、肝腎の政府には、いまだ具体的な対応策が見られない。もたもたせずと、早急に現行の刑法を大胆に改正し、新たに独自の外国人犯罪対策法でも立法して、外国人犯罪には、今よりずっと峻厳な態度で臨む、という姿勢を、内外共に明確に示すべきではないか。平成二年に廃止された、指紋押捺制度を復活させるのも一つの手だろう。
 こうした問題についての具体的な議論がいっこうに盛んにならないのは、一つには、この国に巣喰らう「人権派」の存在が大きい。外国人犯罪に対する刑法改正でも提案しようものなら「外国人を差別するのか!」「人権蹂躙!」「国際人権規約違反だ!」 などと騒ぎ立て、法案を潰しにかかることは目に見えている。そして「真面目に生活している外国人だっている。そういう人達が気の毒だ。日本人だって犯罪は犯すし、日本人による犯罪件数の方が多いじゃないか」などと幼稚なことを言い出すのも、容易に想像出来よう。
 だいたい犯罪件数というものは、どこの国でも人口の多寡に比例しているもので、東京や大阪のような大都市の犯罪が、地方より多くなることが必然であるように、ここは日本なのだから、絶対数の多い日本人の犯罪が、件数として多くなるのは当り前だ。問題は割合である。例えば、人数的に日本人より遥かに少ない筈の朝鮮人が、拉致問題など大きな犯罪に関わっているのはなぜか。また、兇悪犯罪といえば即シナ人、という位のこの現実は、何を物語るのか、などを考えてみれば、もはやそんな悠長なことは言っていられない筈だ。百歩譲って、では外国人に限らず、日本人にも厳しくしましょう、少年犯罪や精神異常者の犯罪など全ての犯罪に対し、現行法はあまりに甘過ぎるから、刑法そのものを大きく改正し、より厳罰化しましょう、と言われたなら、「人権派」は賛成するのか。「刑を厳格にしてみても、本質的な問題解決にはならない。一番の問題は、この日本社会の歪みにある」なぞと言い出して、結局は反対するのが関の山だろう。何せ、街頭への防犯カメラ設置にまで、「北朝鮮のような監視社会になるようで息苦しい」などと反対している手合いである。連中は、長崎の十二歳少年による幼児殺害事件に、防犯カメラが大いに役立ったことについては、どうコメントするつもりなのだろうか。

 「差別」に至る必然性
 国民の生命と財産を守るのは、その国の政府の一番の責務である。日本国民が外国人犯罪に脅かされている今、その対応策をしっかりと確立することで、一部の「人権派」勢力に、外国人差別と受け取られるような事態になったとしても、何ら非難されるべきものでは無いのだ。もし「外国人は指紋を押すのが規則」なら、当然、四の五の言わず押すべきであるし、疚しいことが無いなら、簡単なことだ。それが厭だと言うのなら、お引き取り願うしかない。悪化する治安に苦悩する日本の事情を理解しようともせず、その程度の規則さえ遵守出来ないような人間を、わざわざ受け入れてやる理由なぞ、どこにも無い。
 仮にあなたが、ある国に留学し、真面目に勉強していたとする。ところが、日本人による残虐な犯罪が、その国で頻発したが為、あなたは街を歩いていてさえ、その国の人々から胡乱な目で見られ、時にはあからさまに「盗人め、この国から出て行け!」などと罵倒される。そして、「日本人は兇悪だから、国内にいる日本人全員に指紋を押捺させよう」という話になってしまう。さて、あなたはこれに対し、裁判やデモ行進でも起こして、その国の政策に異義を唱えるだろうか。私も含めた、多くの日本人なら、そんなことはしないだろう。寧ろ、無理もないことと思い、恥知らずな犯罪行為を重ねた同国人に怒りを覚えるに違いない。そして、同国人の犯した行為を恥とし、いたたまれずに帰国するか、或いは、何とか日本人の汚名を挽回したいと、何かしら償いのような行為をしたい、と考えるであろう。いわれなき差別とは断固戦うとしても、差別に至った経緯に尤もな理由があるならば、一旦はそれを受け入れ、率先してその汚名挽回に努力してみせるのが、我々日本人の美意識だからである。
 然るに、わが国における“三国人”はどうか。どれだけ同国人の犯罪行為が起きようが、恬として恥じること無く、居直りとも取れる態度で、あくまで権利を主張し、被害者意識丸出しで「差別、差別」と喚き散らす。全く図々しいにもほどがある。現下の日本で、ある特定の種類の外国人が差別されるのは、きわめて自然の成り行きではないか。連中の犯罪行為は、それほどにも常軌を逸しているのだから。そんなに差別されるのが厭なら、少しは、差別されないよう努力してみたらよかろう。

 自然界の摂理
 筑紫哲也など、カルトな“人権真理教徒”らは、「異質なものを排除しようという、その考え方が戦争や殺しあいを生む」などと言い、「異質なものでも、それを理解し、温かく受容していくことこそが、人間社会のあるべき姿」などとのたまう。人の好い日本人は、こうした甘ったるい性善説を盲信しがちである。だが、人間も含めた、あまねく生物の基本原則とは、実は「異質なものは排除する」なのだ。生物のみではない、分子や細胞レベルにおいてすら、不自然な異物の侵入に対しては、アレルギー反応を起こすではないか。それが自然界より付与された、基本的な自衛本能だからである。それを頭ごなしに「差別だ」などと否定することこそ、自然界の摂理に反した野蛮な思考に他ならない。
 長い歴史の中で、あらゆる民族が、異質なものを排除し、同質なもの同士でテリトリーを形成し、その中で助け合うことによって社会を形成してきたのは、差別とか偏見が主原因ではなく、まず第一に、自らのテリトリーを守るという、正しい理由があったからだ。
 そして、社会というものが、同質なもの同士によって作られている以上、異質な存在がそこに入っていく時には、極力摩擦や軋轢を避ける為、その社会によく溶け込み、習慣なりモラルなりを理解するよう、懸命な努力を払うべきなのである。それが出来ない者や、その社会に適応しようともせず、これを嫌悪し、あまつさえ破壊したがるような輩と共存することなど、到底出来る相談でないのだ。かかる異質な者と共存するには、互いに距離をおくことによって、無用な摩擦や軋轢を避ける他無い。そうした「住み分け」こそが、世を平穏たらしめる、真の知恵なのである。

 毅然たる対策を
 繰り返すが、己の祖先たちが、血と汗を流して築き上げてきた、かけがえの無い社会の平穏を乱すような異分子が闖入してきた場合に、これを毅然として排除することは、全ての生物が持つ基本的な自衛本能であり、断じて「差別」などではない。そして、この危機的状況において、「外国人差別や偏見は良くない」などと言うことに、一体何ほどの意味があろう。社会の混沌や無秩序が、そんなキレイゴトで解消されるなら、何の苦労も要らぬ。こうしている間にも、無辜な日本国民が、外国人による兇悪犯罪の犠牲になっているのだ。「人権派」の生ぬるい言説や偽善的な態度は、問題解決に何ら寄与せぬどころか、それを妨害し、遅延させているという意味において、兇悪犯罪の幇助行為にも等しい。「人権派」諸君は、自分が兇悪犯罪の片棒を担いでいることを、よくよく自覚すべきである。
 そして、もはや、かかる偽善者からの非難など、何ら恐れるに価しない。日本社会を蹂躙する異分子を徹底排除するべく、政府を先頭に具体案を練り、毅然として実行すべき時が、今そこに来ているのだ。





もどる  次へ







100MB無料ホームページ可愛いサーバロリポップClick Here!