世良田忠順寄稿
日本人よ、覚醒せよ〜外来思想を唯々諾々と受け入れる危険〜



 不況が治安悪化の主要因?
 犯罪発生件数が増加する一方、それに反比例するかのように、検挙率は著しく低下し、しかも犯罪の内容は、凶悪化・兇暴化、更に低年齢化が進んでいる。こうした、悪化する治安の最大要因を、日本経済の沈滞に求める向きがあるが、果たしてそれは正鵠を射た意見と言えるだろうか。
 確かに経済状態は、お世辞にもいいとはいえない。だが、それにしても尚、年間一千万人にも達する海外旅行者(ちなみに昨年は約一千六百万人)を擁し、各人が、自家用車や数多の家電製品を保有する金満大国であるのも、紛れもない事実である。物質文明、機械文明を、かくも謳歌している時代は、かつて無いといっても過言ではあるまい。これに比べれば、戦前日本の平均的な生活水準は、遥かに下であった筈だし、敗戦から、高度経済成長の軌道に乗る前に至っては、更に貧しかったであろう。
 にも関わらず、今見られるが如き人心の荒廃が、その頃に現出していたであろうか?もし、経済状態が犯罪を呼ぶ主な要因であるなら、戦前の日本など、今よりずっと多くの兇悪犯罪が発生していてもおかしくない筈ではないか。確かに、貧困というものが犯罪を誘発するのは事実である。だが、政情不安で、内戦やテロが頻発し、経済も破綻しているような国の、正真正銘の「貧困」ならばともかく、目下の日本の状態を指して「貧困」などとは、恥ずかしくて、とても口に出せたものでは無かろう。だとすれば、こと日本の場合、経済と治安の間に著しい相関関係を認めるのは、些か無理があるとは言えないだろうか。今や世界一の超大国、アメリカの社会は、経済も物質文明も頗る好調であるにも関わらず、その犯罪件数の凄まじさ、内容の兇悪さたるや、実に驚くばかりではないか。これを以てしても、経済が好調になれば治安も良くなる、などというのは、些かピントがずれていると言わざるを得まい。寧ろ、治安悪化の最大要因は、一つには外国人犯罪の多発、そしてもう一つは、国民精神と道徳心の荒廃にこそ、求めるべきではあるまいか。

 日本人の質を変えたもの
 戦前と現代の日本とで、最も著しく変わったものは、国民の道徳観、もしくは価値観であろう。物質的に今よりずっと貧しい暮らしをしていた筈の戦前に、どうして今のような凶悪犯罪が起きなかったのかといえば、俗に言う「襤褸は着てても心は錦」を、世を挙げて、人々が誇りとしていたからではないか、と思われる。そのかみは、どんなに貧しくとも、盗みや殺人を犯すのは、己一身のみならず、親兄弟、ひいてはご先祖様、その地域社会全体に対し、泥を塗るような卑劣な行為であり、恥ずべきことであった。現代のように、己という一個人のみが大事なのではなく、親、子、家族、先祖、子孫といった、己を軸とした時間の連続性の中に、ごく自然に己を位置付けていたからである。また、財産があるとか、分限者であることが、必ずしも尊敬の対象たり得たわけではなかった。最も尊敬され、また愛されたのは、信心深い者、正直な者、親孝行や忠義な者、義理堅く、強くて勇気ある者であり、金銭や物欲にあからさまに拘泥する者は、寧ろ「業つくばり」と卑しまれ、軽蔑された。勿論、深い本音の部分では、誰しも金銭は大切ではあったに違いないが、それを人前で露骨にするのを恥とする、確かな精神文化があった。
 そして、なぜそうであったかといえば、もともとの民族性もあったであろうが、その上で無視できないのは、「教育」である。明治以後、「官」においては教育勅語、「民」においても、様々な少年少女向きの読み物などを通して、江戸期に醸成された、様々の美徳が、脈々と日本人の血肉となって継承された。とりわけ、幼・少年期向きの本は、かつての偉人、英雄の伝記物語が多く、また、娯楽時代劇や冒険活劇、漫画の類でさえも、その中で描かれるのは、志操の高さを持ち、決して暴力的ではない、真の勇気と強さをあわせ持った日本男児であり、或いは、花も恥じらう純真さ、可憐さでありながら、見せ掛けでない優しさと、芯の強さをあわせ持った大和撫子であった。子供たちは、これらの読書を通じ、偉大な先人を尊敬する気持を涵養され、理想の男性像・女性像をおのおの見い出して、皆が皆、かくありたいと憧れたのである。いわば、幼い内から恥を知ることを覚え、国を、郷土を、英雄を愛し、己という一個人のみではなく、広く日本や世界のことを考える、志高い者でありたい、と、子供の時分から感得させる土壌が、しっかりと形成されていたのであった。
 翻って、現代はどうか。「民」には、依然として、そうした志操の高さを第一に、教育に取り組んでいる人もいないではないが、極めて少数であり、「官」を含めた圧倒的多数は、戦前までのモラルを悉く否定し去ってしまった。学校からは、教育勅語が駆逐され、代わりに、日教組教師による、反国家を臆面もなく歌い上げた“自由・個人主義”教育が主導権を握った。子供の読み物からは、偉人も英雄も、“日本男児”も“大和撫子”も姿を消し、代わりに「等身大の」「人間臭い」(現代人の好む言い回しだ)、ありふれた人間が登場する低俗な物語が増え、文字通り“子供騙し”の幼稚な似而非ファンタジーや、もっとひどいのになると“反戦平和”を隠れ蓑にした、「(何があっても)戦わないこと」を奨励するような話や、日本人が自分の国に対して誇りを持てないような話ばかりになっていった。

 羊と狼
 かくて、戦後日本は、「自由」だの「個人主義」だのという言葉に象徴される、外来の思想や価値観を大量に流入させ、社会や文化、道徳、教育など、様々の面に於いて、その影響をもろに受けてきたわけであるが、結果としてそれが、戦後もまだ暫くは遺っていた筈の、多くの日本的美質を駆逐し、死滅させることとなった。
 とどめが、この十年来、日本中を席巻している「グローバリズム」と「人権思想」である。この二つの外来思想こそ、日本人の精神性を決定的に変質させ、堕落させた、悪魔的な“侵略”思想と言っても過言ではあるまい。
 生物の世界では、外来種がその地域特有の固有種を絶滅させ、ひいては貴重な生態系を破壊する、という話をよく聞く。まさしく、我が国のモラルとか精神の世界で起きている現象は、それだ。人々は、「国際化」(グローバル化)などと耳にすれば、国境だの人種だのを超越した、絶対的な自由と平和と平等を兼ね備えた理想的世界が、今にも目前で実現するかのような幻想を抱きがちである。だが、実際の「国際化」というものは、そんなに美しい代物では断じてない。その国固有の、貴重な伝統文化や慣習が、強大な“外来種”によって絶滅させられるかもしれないのだ。いわば、生物界の「弱肉強食」「適者生存」の摂理の波が、経済原則だの、人類普遍の理想などを大義名分とし、容赦なく襲いかかってくるわけである。そこには、当然軋轢も生じ、深刻な対立も生じる。自分らの文化に、愛と誇りがあるのならば、極めて当り前のことであろう。
 一体、自由だのグローバルだの人権だのという言葉に浮かれ続ける現代日本人に、こうした、事の重大性や危険性を充分認識し、その結果を厳粛に受け止めるだけの覚悟が、果たしてあっただろうか。私には、とてもそうは思えない。これ迄ずっと、柵があることによって保護されていた、臆病な癖に傲慢な羊たちが、「自由になりたい!自由にしてくれ!」などと散々に喚き散らした挙げ句、柵を取り払って貰ったはいいが、途端に、外から入ってきた狼どもに次々と食われていく、というような、そんな寓話的光景を、どうしても連想してしまうのである。
 外から来るものは、好意的なものばかりとは限らないのだ。これは、増加する一方の、外国人犯罪のみを指して言っているわけではない。思想とか、価値観、或いは制度、宗教なども同様である。それらの中には、この豊かな日本を食い物にしようと目論む、恐るべき何ものかがいる。それに対する、充分な備えなくして、ただ徒らに、にこやかに門戸を開くのは、「どうぞ、好き放題に荒らして下さい」と言っているのと同義の間抜けさであろう。
 「自由」、もしくは「自由化」というのは、夢のような、美しい理想郷を意味するものではない。場合によっては、これまで先人たちが大切に育んできた、日本的美質の悉くを否定し、葬り去らなければならなくなるのである。「お人よし」というのも、ある意味、日本人の美質の一つではあろうが、もはや、それだけでは駄目だ。「相手も自分らと同じ人間」などという甘い考えは捨て去り、まずは、相手と自分らとの相違点を、しっかりと見据えることから、真の「国際化」の第一歩が始まるのだ。
 何より必要なのは、経済もさることながら、第一は、モラルの回復であり、古くからの日本精神の復興である。精神さえ健全・堅牢であれば、「武士は食わねど高楊枝」で、少々の経済活動の沈滞など耐えられるものだ。日本人よ、外来思想に惑わされることなく、今こそ、祖国伝来の道徳に、覚醒せよ。





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