世良田忠順寄稿


九月号
 自由の幻想 〜“自由”と“人権”を疑え〜

 『腐臭を放つ現代社会』

 毎日のように、兇悪犯罪や、目を覆うような異常犯罪のニュースが耳目を脅かす。犯罪の低年齢化、凶悪化、そして残虐非道な外国人犯罪の激増ぶりが指摘されて、既に久しい。これだけ、毎日ひどいニュースばかり続くと、人々もすっかり感覚が麻痺してしまうのか、少々のことでは誰も驚かず、「ああ、またか」程度の感想しか抱けなくなっている観もある。しかも、新たな事件が起きる度に、前の事件は忘れ去られる、さながら“犯罪不感症”の如き体たらくで、もはや末期的と申す他ない有り様である。慣れたり、忘れたりしなければ身が持たぬ、ということもあるだろうが、それにしても、今少し危機感を持って、何とかしようという空気になっていかないものか、と思わずにはいられない。

 『「自由」を疑え』

 戦後、我が国は「自由」になった、とよく言われる。だが、そもそも自由とは、一体何だろう?果たして、世間で言うほどに、素晴らしいものなのだろうか?
 現下の、放恣なまでの「自由の垂れ流し」状態が、社会を、人間を、そしてその精神を、どう変えてしまったかを見るがいい。人間は、より素晴らしい、美しい存在たり得たのか。人は、それでいっそう幸福になれたのか。否であろう。
 人間というものは、無際限に自由を求めれば求めるほど、逆に不自由さや息苦しさを覚える、きわめてパラドキシカルな存在である。自由の中で、人々は、更なる自由を追い求め、際限なく、その欲望と、欲求不満とを増幅させていく。そして、誰もが多かれ少なかれ、満たされぬ思いと、得体の知れぬ焦燥感を抱え込み、それが嵩じるあまり、精神を病んだり、発狂したりする者も多く現れる。畢竟、放埒な自由は、逆に人間を甚だしい不安に陥れるのである。
 戦後の日本社会は、自由の持つ、この本質的な恐ろしさについて、あまりに無知であり、無防備であり過ぎた。自由といえば、即、素晴らしいもの、至上の価値であるもののように、浅薄にも思い込んできた。
 本来、「自由」とは、一方に抑圧、弾圧、禁止、強制、制限などがあってこそ、初めて意味を帯びる、相対的な言葉に過ぎない。何がしかの強固な理念や、究極の理想を示すような、深遠な言葉では断じてないのである。かかる便宜的な用語に、あたかも絶対的で普遍的な意味があるかのような幻想を抱いてしまったことから、戦後日本人の価値観の顛倒は始まった。

 『外来思想を疑え』

 「自由・平等・博愛」。これは、近代市民社会を成立させたとされる、かのフランス革命に於いて、理想とされた三つのキー・ワードである。我が国でも、長きに亘って「人類普遍の崇高な理念」として受け止められてきた言葉であり、目下、隆盛を極める人権思想も、これらの言葉が起源となっているのは衆知の事実だ。
 だが、私は、ここでまたも首をひねってしまう。十八世紀末のフランスで、崇高な理念とされたものを、そっくりその儘、日本の理想としてしまって、本当によいのか、と。社会構造も、歴史も、そして何より精神、文化、慣習など、あまりに多くが異なっているにも関わらず、それを無条件に受け入れ、あまつさえ、崇め奉らなければならない道理が、どうしてあるというのか。
 明治以来の日本人の悪癖は、外来思想を、まるで我が国古来の思想よりも、優れて進歩的であるかのように錯覚しがちなことである。確かに、産業という分野に限って言うならば、西欧文明は日本より進んでいたろうが、そのことに幻惑されて、産業以外の万事に於いても、日本が西欧に劣っているかのように思い込んでしまったのは、実に遺憾であった。そして、この民族的悪癖は、現代に至るまで、全く修正されずに継続している。少しばかり、外国事情に通じているだけで、その人間を安易にインテリ扱いしてしまう傾向も、そうした悪癖から派生するものであろう。かかる似而非インテリの、軽薄極まりない言説が、どれだけ世を惑わし、人々を迷走させてきたことか、ここにいちいち列挙するのは控えるが、向後は、外来の思想をただ無批判に受け入れる悪弊を絶ち、脈々と続く日本古来の叡智と道徳にこそ、もっと目を向けて行くべきであろう。日本の社会には、日本固有のものの方が、よく適うに決まっているのである。

 『「人権」を疑え』

 戦後日本は、主としてアメリカを見倣い、戦前までの日本の道徳や、社会慣習を、嬉々として破壊してきたが、近年殊に目立つのは、いわゆる人権派の唱える「人権思想」である。この思想こそが、現代日本を腐敗させる、まさに諸悪の根源だろう。
 無論、言葉本来の意義から言うなら、「自由」と同様、「人権」もまた、大切なものであるには違いない。だが、それも行き過ぎてしまうと、社会をいびつに歪めていく、危険思想となり得るのだ。
 過剰な人権の尊重は、日本古来の美意識である、「恥」の概念や、潔さを重んじるという観念を、すっかり抹殺し去った。何が何でも、とにかく生命が大事だ、殺人者であろうと、その命は尊いのだ、という、きわめて不自然な主張を、人権派は当然の如くしてみせるわけだが、それにしても、犯罪者にも人権がある、犯罪に至ったのは、仕方のない事情がある、などと、罪が軽くなるようグズグズ言い出すことと、疑いをかけられただけで、それを恥じて潔く切腹して果てた、そのかみの武士との、何と大きな違いか。どちらが美で、どちらが見苦しいか、今更申すまでもあるまい。「自由」と同様、「人権」もまた、節度なくそれを跳梁跋扈せしめた場合、世界は、どんどん醜悪になって行くのだ。

 『「人権派」の正体』

 一頃、「人の命は地球よりも重い」などという言葉が大流行したが、これほど欺瞞に満ちた厭らしい言葉も、なかなかあるものではないだろう。地球が存在しなくて、どうして人が存在し得ようか。人間一人の命を救うためには、地球一個を犠牲にしてもかまわないとでも言うつもりなのか。笑止千万である。
 しかし、この言葉の「地球」の部分を、仮に「国家」とか「民族」「伝統」「文化」「誇り」「歴史」などと様々に入れ替えてみると、いわゆる「人権派」の主張したい本音が見えて来る。「人権」だとか「生命尊重」の美名のもとに、これらの真実大切なものを、人々の意識から消滅させてしまおうという恐るべき意図が、そんな妄言の中にも垣間見えるのである。
 実際、「人権派」を名乗る勢力の、近年の活動実績を眺めれば、一目瞭然だ。ざっと挙げれば、日本国籍を持たない外国人にも参政権を与えよ、国立大学受験資格も与えよ、犯罪者を厳しく処断せよという刑法の改正には反対だ、不法入国・滞在の外国人も差別せずに様々な権利を与えよ、家族解体を目的とした夫婦別姓や女権拡張論には大賛成だ、愛国心を教える教育は駄目だ、憲法改正反対、有事法制反対、スパイ防止法反対、更には、未曾有のテロ事件をひき起こしたカルト教団への破防法適用にも猛反対、等々、まさに、この日本社会を、秩序無きアナーキズム状態に陥れたいとしか思えない、露骨なまでの“内部工作”である。それも道理で、「平和と人権を愛する善良な市民」というのは、あくまで世を欺く仮面であり、その正体たるや、反日・共産主義者に他ならないのだ。彼らは、流血による暴力革命が、短時日には困難と悟るや、人々の意識や精神面から、徐々にじわじわと地道に攻めていく手法を選んだのである。
 しかも、由々しきことに、彼らの勢力は巨大である。政界は勿論のこと、警察や法曹界、とりわけ教育界への浸透度たるや、日教組の存在を指摘するまでもなく、実に憂慮すべき状態であり、また、「第三の権力」と呼ばれるマスコミ界への汚染度に至っては、産経と読売系列を除く、全ての大手新聞社と放送局が、これら“いわゆる人権派”の支配下、もしくは影響下にある、といっても過言ではない。本稿でも度々指摘している、筑紫哲也や朝日新聞などは、まさにその典型である。一見、ソフトな語り口や外見を擁し、文化や芸術にも深い理解があるような口振りで、しかも人権だの民主主義、平和などについて、誰よりも深く案じているような印象を与えることで衆目を欺いてはいるが、もういい加減、その胡散臭い正体に、国民も気が付かなければ嘘であろう。とはいえ、未だに、彼らの「いい人」ぶった仮面に騙されて、その活動を支援したり、賛同したりする愚者が後を断たないのは、実に歯痒いことである。
 現代日本の醜悪さは、ひとえに、自由と人権こそを、最上の価値と錯覚したことに始まる。しかし、自由であれ人権であれ、本来、基盤となる国家がしっかりしていればこそのものだ。国家や、民族固有のモラルが解体してしまえば、自由も人権もへったくれも無いのである。この、至極当然の理屈を無視してきたツケは、あまりにも大きい。手遅れにならぬうちに、自由と、そして人権への幻想を破棄し、我が国の伝統と道徳の中にこそ、日本再生への新たな活路を見い出して行くべきであろう。






もどる  次へ







100MB無料ホームページ可愛いサーバロリポップClick Here!