世良田忠順寄稿


八月号
 特攻隊を“犬死”と称する愚劣


 「また、先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、ここに深い反省の念を新たにし、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します」----- これは、昨年八月十五日に、小泉首相が全国戦没者追悼式で述べた式辞の一部である。二年続けて、全く同じ主旨の文言になっているところを見ると、どうやら、これが首相の揺ぎない大東亜戦争観なのだろう。要するに、我が国は第二次大戦の元兇であり、多くの国々に甚しい惨禍を齎したので、国民は深く反省しなければならない、と日本国の内閣総理大臣が、わざわざ英霊たちを前にして言っているわけだ。
 全く呆れた話である。祖国の為、尊い命を捧げた先人たちに対し、敬意と感謝の情を以て、その歴史的意義をきちんと称揚してみせることこそが、国家として為すべき追悼ではないか。然るに総理は、死者たちの名誉や勲しは一切無視し、さながら「国家のエゴによる戦争被害者」であったかのように決めつけて、すっかりその死を矮小化してしまった。しかも、それらの死者たちは、アジアに苦痛を齎した戦争の担い手でもあったと、はっきり宣言までしてのける体たらくである。これでは、一体誰の為の追悼なのか、分ったものではあるまい。
 本来の追悼とは、死者の魂と真摯に向き合う姿勢無くしては、決して成り立たないものである。当然、死者に非礼を働くのは厳禁だ。このような、死者を侮辱する言葉が吐かれる追悼式など、日本以外には、世界中どこを探しても見当たらないだろう。それとも、まさかあんな言葉で英霊が喜ぶとでも、首相は本気で考えたのだろうか。或いは、物言わぬ御魂(みたま)のことなど二の次で、現実にある外国からの抗議の方が、遥かに恐ろしかったのか。だとすれば、戦没者第一であるべき追悼行事を、彼は謝罪外交のパフォーマンスの場として利用したことになるが、いずれにしても、英霊に対する敬意が微塵も感じられないことに変わりはない。総理大臣からしてこの程度なのだから、一般の日本人に、先人に対する敬意や思い遣りが欠如してしまうのも、蓋し当然と言うべきであろう。
 かくまで死者たちを蔑ろにし、何の畏れも抱かぬ傲慢な風潮は、特攻隊の英霊たちの死を「犬死」と称して憚らない感覚とも相通じている。曰く、「特攻は、作戦などと言えるものではない。前途ある若者に強制して、あのような死なせ方をするとは、とんでもなく非人間的だ。しかも、あれは全くの無駄死、犬死だった。特攻機の殆どが、体当たりに至る前に撃墜されていたからだ」……これは、一見尤もらしい意見ではある。特攻という作戦に関しては、軍の内部でも反対意見が多く、中でも「過去に“決死隊”というものはあっても、“必死隊”なるものが存在した例はない」との論はよく知られており、私も、その部分に関しては全く同意見だ。
 だが、本稿で問題にしたいのは、作戦の是非ではない。どんなにひどい作戦であっても、それによって死んでいった者に対し、「犬死」と言い放つことの出来る感性の鈍麻こそが、一番の問題だと考えるからである。
 そもそも、「効果が無かったから犬死」などというのは、全く論外な意見である。こういう人は、何を以て効果の有無を決めているのだろう。一機で、敵兵二、三人を殺すだけなら不足、軍艦一隻大破させれば万々歳、一兵卒を十人殺傷するより将官級一人を殺す方が尚よし----効果的というのは、そういうことなのだろうか。
 だが、その論法で言うなら、何も特攻に限らず、例えば、行軍の最中、まだ敵兵を一人も殺さない内に流れ弾にあたって命を落とした者とか、敵機を一機も打ち落とせない儘撃墜されてしまったパイロットとか、もっと極端にいうなら、戦闘ではなく、訓練中に飛行機が墜落して亡くなった者などは、全てが犬死だ、という話になってしまう。そんな馬鹿な話はあるまい。
 軍事における作戦とは、程度の差はあれ、非情なものである。如何なる名将であっても、一兵も損ぜぬ儘勝てるような“人道的”作戦など、なかなか立案できるものではない。ましてや、国家が危急存亡にある時に、非情の軍事行動は必然である。なればこそ、前途有為な若者が、そうした非情の作戦に身を捧げ、命を落とした場合、たとえそれが前述したように、敵兵を一人も殺せない内に落命したのだとしても、無駄死などといった言葉を投げつけるのは、厳に謹まなければならないのである。こんなことは、今更申すまでもなく、当り前の話ではないか。前途有為な若者の死を惜しむ気持は分らぬでもないが、それならば尚のこと、それを「犬死」呼ばわりして、崇高な死を泥にまみれさせるのは、かえって贔屓の引き倒しになることに、いい加減、気が付くべきである。
  なお、今一度断わっておくが、私は、何も特攻作戦そのものについての是非を論ずるな、と言うのではない。寧ろ、特攻のみならず、大東亜戦争における全ての作戦についての、きちんとした分析と反省は、必ず為されなければならないと考えている。ただ、本稿の目的が、あくまで特攻隊を「犬死」とする誤謬を払拭することにある為に、主旨から逸脱する議論に関しては、別稿に譲りたい、という話に過ぎない。
 さて、唐突なようだが、ここで幕末の志士・吉田松陰の死を思い起こしてみよう。彼の死を、「犬死」と称する者は誰も居るまいが、しかし、特攻を誹謗するのと同じ論法を用いるなら、その松陰の死でさえも、貶めることは可能になる。例えばこんな調子だ。「松陰なんて、幕吏一人斬ったわけでもなし、具体的に、討幕活動に奔走したわけでもない。何一つ実際の功績など無い儘、無駄に死んだだけの、つまらない人間さ」「露見すれば死ぬと分りきっているのに、密航などとは何と無謀な男だ。あんな愚行を敢えてせずとも、世の中は自然に変わったのだ。それよりも命を大切に生き長らえ、ここぞという時に備えておくべきだった。松陰の死は犬死だよ」……読者諸賢は、この愚劣な論法を、滑稽と笑うであろう。しかし、特攻隊を犬死だとする言説は、まさにこうした浅薄な思考と同次元にあることに、気が付かれたであろうか。
 確かに、松陰自身は、維新回天の偉業に於いて、実質的な功績を残したわけでは無い。西郷、大久保などに比べれば、巨象と蟻くらいに、その実績には懸隔があるだろう。にも関わらず、そんな松陰の名が、大西郷にも劣らぬほど重きを為しているのはなぜか。他でもない、松陰の死の後に続いた、数多の志士たちの存在である。松陰の人柄や教えに、多大な影響を受け、その死に感動・発奮した幾多もの人々が、松陰の志を無にしてなろうかと、身命を捨てて立ち上がったからである。いわば、松陰の身は滅んでも、その精神はしっかりと継承され、生き続けたからなのだ。
 何が言いたいか、もうお分りだろう。犬死だの、無意味な死などというのは、決して死んだ当人の責任ではない。もし、特攻隊の死が犬死であるというなら、それを犬死たらしめているのは、まさしく、今に生きる我々なのである。その死に一片の意義さえ見いだせず、ただ犬死と決めつけ、只管に、己の無為と怯懦とに安住している者にこそ、その責任があるのだ。
 すると今度は、「こじつけを言うな。松陰は自分の意志でやったことであり、特攻隊は強制されてやったのだから、二つを同列に論じることは出来ない」「松陰は、多くの人をその教えで感化したが、特攻隊は他者を啓蒙しようという意志など無かった。両者には格段の差がある」などと言い出す者が現れる。魂というものを持たないがゆえに、感動することを知らぬ者は、そうやって、果てしもなく屁理屈を言い続けるのだろう。
 どんな死であれ、そこに至るまでには、その人なりの様々なドラマがある。我々が目を向けるのは、人々が如何に生き、如何に死のうとしたのか、その物語の部分であるべきであり、結果としての死ではない。死が、軍事作戦の中でどう機能したかだの、効率的であったか否かだのは、あくまで副次的な問題なのだ。
 そもそも、生物学的にいうなら、死とは自然現象に過ぎず、死それ自体にさしたる意味などない。その意味では、あまねく全ての死が、「犬死」であるとも言えよう。
しかし、人間は、死から、何らかの意味を見い出さずにはいられない。人と動物との間に何か決定的な違いがあるとするなら、まさにその一点にこそある。生者が、敬愛する死者の志を受け継ごうと決意して、懸命に努めた時、死者の精神は、生者の内に生き続け、継承されて行くのである。そうしたことの尊さ、崇高さを認めずして、ただ口先だけで「生命の重さ」などと言い出すような昨今の風潮は、実に空虚と言う他無い。
 歴史に学ぶということは、先人たちが紡いできた物語に、可能な限り想像力を働かせ、感動したり、共鳴したりして、魂と魂で触れあおうと試みることである。今、我々現代人は、特攻隊の死を犬死と称する迷妄より醒め、その非礼に恥じ入りながら、彼らの精神から、しっかりと何かを継承しなくてはならない。心すべきである。






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