世良田忠順寄稿


四月号
  歴史に対する「作法」〜あるべき歴史小説の姿を問う


 世に、歴史小説というものがある。かく申す私自身、子供の時分から今に至る迄、好んで読んできたし、思い起こせば、歴史というもの に大いに関心を持たせてくれる契機となった作品や、目から鱗が落ちるような斬新な解釈、或いは、魂の慄えるような感動を与えてくれたものなど、枚挙に暇が無いほどである。
 しかし最近、どうにも違 和感というのか、気になってならないことがある。そ れは、主として、歴史小説 を書く者と、その影響下に あると思われる読者やテレビの歴史番組、はたまたその出演者や視聴者といった人たちの、歴史に対してとっている、ある共通した態度に関することである。
 一言で言うなら、傲岸不遜なのだ。先人たちに対して、あまりにも畏怖という感情が無さ過ぎるのである。勿論、皆が皆、そうだとい うわけでは決してない。しかし、たまたま目について読んでみたもの、雑誌や新聞の連載に目を通したもの、或いは、テレビの歴史番組 などで、おのれの歴史観を得々と喋っている学者や作家先生の発言、またはインターネットなど不特定多数が書き込んでいる歴史についての掲示板などを目のあ たりにすると、どうにも首を傾げたくなることが、多々ある。
 何ごとであれ、安全な立場にある者が、責任ある立場にある者を、批判したり、非難したりするのは容易い。ましてや、全ての結果が見えてしまっている現代人が、過去の事象について歴史上の人物やその行為を非難することほど、楽なことはあるまい。なればこそ、本来ならば、批判や非難する側 にも、折り目正しい作法、ある一定の節度のようなものが必要な筈である。だが、現実には、そうした節度を超えた、目を覆いたくなるような言説が、あまりに目立つ気がする。やれ、誰それは愚将だった、無能だった、暗愚だった、時代錯誤だった、等々、歴史上の人物を冒涜し、決めつける物言いの氾濫。或いは、こうすれば良かったのに、ああすれば勝っていたのに、それに気がつかないなんて何て馬鹿だったんだ、といった安直な結果論を、平然と口にしてのける態度。そこには、歴史に対する哀惜の情といったものが、決定的 に欠けている。代わりに見受けられるのは、えらそうに「論評」する自分らが、あたかも歴史上の人物たちよりも、ずっと高みに立つ賢者でもあるかのような、思い上がった錯覚である。勘ぐれば、自分らが優越感に浸ってよい気持になるため、歴史を利用しているだけ、という印象さえ受ける。
 古来、日本人とは、伝統的に「判官贔屓」であり、歴史の勝者をほめ讃える以上に、たとえ敗者といえども、それに温かい眼差しを向け、勇者として尊敬し、時には神としてその霊を祀る民族性を有していた筈である。儚さの中にも「もののあわれ」とも言うべき美意識を紡ぎ、育むだけの、豊かな精神的風土があった筈なのだ。『平家物語』をはじめとする、多くの軍記物語が、勝者よりも、寧ろ敗者の奮戦ぶりや、その壮烈な最期に力を込めて描いているのも、鎮魂の意味あいと同時に、天晴れ勇者のいさおしを称讃し、後の世に語りつごうという謙譲な姿勢が、当時の人にあったればこそである。ところが、敗戦以後の日本には、そうした美質が失われ、結果のみを是とする、功利主義的思考が蔓延してきたように 思う。これらについて、評論家の福田和也が、格闘家・前田日明との対談本『真剣勝負』(草思社刊)の中で、イタリアの思想家、ロマノ・ヴルピッタの発言を引き、次のように述べている、「彼(筆者註・ヴルピッタ )はまた、保田與重郎を読み解くことで、戦後の日本の知識人批判をしています。戦後の知識人は『儒林の精神』を失い、浪曲などに見られる庶民的な感傷性まで失った。まして、敗北の偉大さを尊敬する心もなく、代わりに西欧の正義の醜い投影として理屈っぽい独善的な態度をとってきた」 ----成程、いちいち思い当 たる言葉ではないか。「儒林の精神の喪失」とは、戦後の日本人が、進歩的・唯物論的解釈の流行に乗り、武士道的道徳を否定し、「志」という言葉を忘れ、神話や伝説を破壊する行為に邁進した、浅薄で恥ずべき精神的営為を指すと思われるし、「浪曲などに見られる庶民的な感傷性の喪失」とは、例えば『太平記』における桜井の駅や七生報国、 稲村ヶ崎の新田義貞の件り、はたまた牛若丸や曾我兄弟、赤穂義士の物語といったものに、素直に感動すること もなく、寧ろ露骨な軽侮と冷笑を浴びせることを、さも現代的な知性であるかのように思い為していた姿を彷佛とさせ、最後の「西欧の正義の醜い投影として理屈っぽい独善的な態度」とは、元冦の際の鎌倉武士や、前の大戦の神風特攻隊など、先人たちがその身心を砕き、魂を捧げた行為をも、全て何らかの打算や強要の結果であったかのように矮小化 し、そう考えることがさも科学的、進歩的な態度であるかのように思い上がった精神の有り様を、痛烈に告発しているかのようである。
 言うなれば、戦後は真の 「歴史愛好家」が減り、代 わりに、所謂「歴史おたく」が増えてしまったのだ。歴史愛好家というのは、歴史に対してもっと謙虚であり、歴史上の人物に対しても、膝まずくような態度、仰ぎ見るような気持が顕著で、時には、多大な敬意や共感さえ抱きつつ、自らの生の 指針ともしているような人々のことである。大東亜戦争以前、とりわけ明治維新の頃などは、多くの日本人がその類であった。一方の歴史おたくというのは、マ ニアックな知識こそ有しているものの、所詮は知的遊 戯の範囲を出るものではなく、歴史への哀惜の情も、先人への畏怖の感情も持ち合わせていない、利己的な、自分を常に一段高みに置いているような人々である。
 同じく『真剣勝負』から、少々長くなるが、今度は前 田日明の言葉を引用しよう。 「そういう話を聞いていて 思うんですが、今の人間が 卑怯なのは、ただ今現在の価値観だけで過去を断罪する事なんです。(略)日本 のやった戦争に問題があったのは確かだけれど、当時の日本人にしたら、煩悶、苦悩を重ねた末にやらざるをえないと覚悟を決めてやったわけでしょう。(略) そういうギリギリのところで国とか公に殉じた精神、 心根を汲まなくて、全部あの戦争は侵略だったみたいにして断罪するのは、それこそ卑怯だと思います。敗北と言う結果が分っていて、まるで時間のカンニングペーパーを見て答案を書いているようなものじゃないで すか。カンニングペーパーを使って、当時の人たちの行動を批評するのじゃなくて侮辱する。そういう人たちの書いたもの、言っている事というのは、もう本当に嫌ですね」
 さすがに戦うことを生業 とする格闘家だけあって、 生半可な言論人のそれと様 変わり、胆の座った、見事な言葉である。一応この発 言は、前の大戦にまつわる 一連の言論について述べら れたものであるが、私としては、それを更に敷衍し、 歴史全般について我々現代 人が語る際に、まず肝に銘 じておくべき言葉として、大いに称揚しておきたい。 かかる節度を大前提としな い限り、歴史を語る者の言説は、どこまでも卑しく、果てしのない先人への冒涜や侮辱へと堕すものになりがちになるからである。
 真に歴史を愛する者なら ば、現代的な価値観から浅薄な解釈を下すのを止め、可能な限り、その時代の人々の心に近付こうという努力をした上で、初めて批評なり批判なりをすべきであ る。更に理想を言えば、批判するからには、その人物の下した決断以上に優れた代案を、きちんと提示してみせるべきなのである。それにしたって、現代人は 「時間のカンニングペーパー」を見た上で「答案」を書けるという、甚だ有利な立場にあることを、決して忘却してはなるまい。
 さて、歴史小説なんて言ってみても、その本質は娯楽ではないか、そんなに目くじらを立てるほどのこと ではあるまい、と仰せの向 きも、或いはあるやもしれぬ。日本人の多くが、先人に対する謙虚さや畏敬の念 を疎かにし始めて既に久しいが、そうなった原因の第 一に歴史小説があるなどとは、私にしても思っている わけではない。確かに、問題はもっと根が深いのだ。
 だが、或いはこうも言え るだろう。もしも歴史小説 家たちが、自ら率先して歴 史に対する作法を取り戻し、 併せて、戦後思想の呪縛か ら解き放たれたような、新たな歴史物語を紡ぎだして いくようになれば、その影 響を受けることで、現代人 の傲岸不遜な歴史認識も、いつしか随分と革まるので はないか、と。  無論、現状は、それとは ほど遠い。先人たちに対し、 「仰ぎ見る気持」、「膝まず く気持」を持たない者らが、なまじその人気と才能にまかせて、歴史に関する文章を好き勝手に書くことにより、それらを読む者らに少なからぬ悪影響を与えているのだから。
 よって、私としては、こうした風潮に一石を投じ、 ひいては、歴史小説家の覚醒を促すことは、決して無駄なことではない、と信ずるものである。 (文中敬称略)






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