世良田忠順寄稿


三月号
 日本人としての「型」を求めて〜歌舞伎を観て思うこと

 【歌舞伎誕生四百年】
 年末に、三島由紀夫作『椿説弓張月』の歌舞伎座公演を観て以来、すっかり歌舞伎に嵌まっている。何でも本年は、歌舞伎誕生から四百年という節目の年にあたるそうで、テレビ等でもそのことをかなり喧伝し、歌舞伎を盛り上げようとしている様子で、結構な話である。
 さて、そんなブームに便乗するようで甚だ面映いが、今回はその歌舞伎の魅力について語ることをお許し頂きたい。ただ何ぶん、つい最近歌舞伎好きになった“新参者”ゆえに、教養ある人士から見れば、噴飯ものめいた勘違いを平然と晒すようなこともあろうかと思う。御叱責や御教示などあれば、有難く拝受つかまつりたい。

 【歌舞伎役者は「神」?】
 私が歌舞伎に魅かれるのは、何よりも、その様式美の中で醸し出される、神秘的で妖しい雰囲気にある。歌舞伎役者たちは、あたかも魔法でもあやつるように、自身の周囲の空気を自在に変化させ、その一挙手一投足によって、舞台全体までも、この世ならぬ異空間へと変容させてしまう。そして、舞台上の人物たち---- 例えば、鎮西八郎為朝、源義経、静御前、弁慶、平知盛、大石内蔵助、曾我五郎、佐倉宗吾、平維茂といった歴史上の人物から、白縫姫、高間太郎、更科姫、清姫といった架空の人物までもが、さながら彼等自身の精霊が、役者の体に憑いて喋ったり動いたりしているかのような錯覚さえしてきて、時に戦慄するほどである。
 歌舞伎の時代物というのは、史実を無視したものが多く、しかも、その滑稽さ寸前ともいうべき過剰な脚色ぶりやデフォルメは、話だけ聞いている限りでは、馬鹿々々しいとさえ感じるほどなのであるが、それがいざ芝居を見た時には、逆に史実こそどうでもよくなって、劇そのものに芯から心打たれてしまうのであるから、実にこれは尋常ではない。こんなことが出来る歌舞伎役者とは、人間であることを遥かに超越した、「神」の如き存在ではあるまいか。
 断わっておくが、私は何も生身の彼等をさして「神」などというつもりはない。私生活は勿論、役者としても、テレビ出演などしている時の彼等は、どんな熱演であろうとも、あくまで「人間の演技」という範疇に留まるもので、歌舞伎に類する感銘を覚えたのは、ただの一度もないからである。それがなぜ、こと歌舞伎の舞台ともなると、「神」にも近しい存在へとなり得るのであろうか。

 【個性よりも伝統尊重】
 正直言えば、私は若い頃、「歌舞伎なんて、昔から同じ演目のものを、昔と同じようにただ上演しているだけ。何の進歩も新しさも無く、伝統という型に嵌まった退屈な芸術」などと思っていたことがある。個性的であること、自由であること、新しいこと、進歩的であること等を至上の価値とする現代人の通弊に、見事なほど陥っていたわけであるが、何とも傲慢で浅薄であったと恥じ入るほかない。とはいえ、かつての私のように、無意識裡にそういった価値観に毒されている人は、今なお相当な数に上るのではなかろうか。
 衆知の通り、歌舞伎には、演技においても演出においても、決まった「型」というものがあり、全ての俳優も演出家も音楽家も、そこから逸脱するような行為は厳然と禁じられて、万事その「型」という枠の中で表現しなければならない。言わば、自由な表現や個性の発揮を抑圧された、甚だ不自由な芸術が歌舞伎である。
 しかし、現代的な劇では到底為し得ない神秘の舞台空間を、歌舞伎がいとも容易に現出させ得るのは、その不自由さがあればこそなのだ。個人の自由を制限する「型」は、幾人もの歌舞伎の偉大な先達によって継承されてきた、まさに叡智の結晶に他ならない。たかが一個人の個性や自由などは、それに比すれば風の前の塵も同然なのである。 
 歌舞伎役者たちは、ひとたび舞台に立つや、その「型」を踏襲することで、古えの魂をその肉体に甦らせ、個々に所有している筈の内面だの自我だの個性だのから解脱して、「役」そのものともいうべき透徹した存在へと化す。即ち、「型」とは、自らの意識の奥底まで降りていって、そこで代々の先人たちの魂と出会い、これを己の肉体に宿らしめる、秘伝の演技術とも言えよう。そう考えれば、歌舞伎における演技が「神性」を帯び、しばしば「人間の演技」という範疇を超えた、この世ならぬ美を見せるのも、あながち奇とするにあたるまい。そこに、遥か太古の、原初の演劇や舞踊の名残りを感じることも可能であろう。古代の劇や舞いが、演者の自己表現が目的ではなく、寧ろその自我を捨て、人性を超越した存在(=神)と合一する秘儀の一つであったように、歌舞伎もまた、演者とは別個の人格へと昇華化身する芸術であり、あの白塗りや隈取り、独特の衣裳も、特定の仮面や衣裳を付けることで「神格」を獲得する古代民族の聖化の秘儀と、どこか相通ずるものを感じさせるからである。言わば私は、歌舞伎を通して、祖霊たちの聖なる舞いを観ているのかもしれない。

 【「型」を喪失した日本人】
 さて、ここまで歌舞伎の生命線ともいえる「型」について、如何にそれが重要であるかを、拙い表現ながら述べてきたつもりであるが、ここで思い切って話を転換してみたい。
 それは、我々日本人の、日本民族の「型」という問題である。現代の日本人は、日本人としての「型」を失いつつある、といえはしないだろうか。
 日本人の「型」などと言っても、歌舞伎とは違い、別段厳しい修業が必要になるわけではない。日本人としての誇りや、きちんとした言葉遣い、礼儀作法、健全な愛国心、愛郷心、正義を愛し不正を憎む心、公共心の涵養などといった、ごく当然の道徳に過ぎないものだからである。だが、その当り前が、今や溶解し始めているのだ。
 そうなった要因は何かといえば、「個性尊重」を標榜し、自由や進歩を最上の価値として、伝統など古いものは消え去ってもかまわないとするような風潮、そして、道徳などは個性や自由を阻害し、抑圧する邪魔なものでしかないとする歪んだ意識にある。更には、そうした歪みを助長させるべく、積極的な工作を行なってきた朝日新聞に代表される反日マスコミ、“進歩的文化人”と称された一部知識人、日教組などの責任もまた重大だ。
 芸能であれスポーツであれ、多くの一流とされる人々が、まず基本の「型」を充分叩きこんだ上で、更に自分の「型」を安定させ、完成させるべく、日夜努力している。決して「型」を破壊したり、なくす方向へは行っていないのだ。その意味で、人々は、「型」の大切さを知っている筈なのである。にも関わらず、それが、こと人としてのあり方、その基本となるべき「型」となると、全く蔑ろにして顧みなくなっているのは、一体どうしたことであろう。本能や欲望の赴く儘、傍若無人にふるまうことを、「自分らしさ」だの「個性的」だの「自己主張」だのと唱えて恥じない昨今の幼稚な風潮も、現代人が「自由」を病的かつ盲目的に信仰し、人としてあるべき「型」を軽視してきた結果といっても、決して過言では無いというのに。

 【修身教育の復活を】
 ところで、戦後、半世紀以上も経って、漸く教育基本法改正への動きが出ている。遅きに失した観はあるが、やらぬよりはよい(この期に及んでなお反対する勢力があるのは驚くほかないが)。但し、如何に結構な文言を盛り込むにせよ、それだけでは机上の空論になりかねまい。問題は、それを如何にして実践し、血肉と化しせしめてゆくか、その具体的な方策をこそ論じてほしいものでる。
 私ならば、戦後になって廃止された「修身」もしくは「教育勅語」の復活を、ぜひ求めたいところだ。
 とにかく、まず「かたち」から正すべきなのである。理屈ではない。美しい日本人である為に、きちんとした「型」を、有無を言わさず踏襲させるべきなのである。さすれば、そこには必ず宿る「魂」がある。これを戦前回帰とか、自由の抑圧だとか言って否定する人たちは、いっぺん歌舞伎を生で見るとよい。歌舞伎が難しいのであれば、スポーツでもかまわない。そこにある、しっかりとした「型」に裏打ちされた美しさを見よ。「型」の内側に、漲る力と個性の輝きを見よ。いみじくも、かつて三島由紀夫は言っている、「美とはかたちの中に撓められた力である」と。今も目を閉じれば、玉三郎の演じた白縫姫や清姫や更科姫の、この世の者とも思えぬあやかしの美を、まざまざと思い浮かべることができる。歌舞伎という「型」の中で、燦然と輝く凄艶なまでの美しさ。真に誇るべき個性とは、このようなものを言うのである。
 なお、誤解無きよう願いたいが、私は決して個性や自由を疎かに思っているわけではない。しかし、無際限の自由、枠の無い個性の発露は、決して美たり得ない、ということを言いたいのだ。個性とは、三島の言葉のように、ある「型」の中で精錬され、磨きあげられるからこそ美しくもなる。宝石にしても、原石の内から美しいわけではない。精錬し、磨き上げ、雑多なもの、余分なものは削ぎ落とし、透明度を高めてゆく努力の末に、輝きを増すのである。個性もまた同様だ。自らを鍛え、向上させることを忌避する者の言い訳や、我が儘や欲望の垂れ流しを、決して個性や自由などと呼んで甘やかすべきではない。もしも、そんな醜いものまでも、個性や自由などというのであれば、そんなものは滅びてしまえ。






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