世良田忠順寄稿


一月号
  武士(もののふ)の魂と言靈の再生



  
そらみつ倭(やまと)の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 
  言靈(ことだま)の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 
〜山上憶良

 「言靈」。古代日本人は、ことばに霊力がやどる、と信じていた。ひとの名前にしても、通名と本名とがあり、本名の方は、ごく親しい身内のほかには秘密にしたり(本当の名を知られることで、呪いをかけられる、と考えられていたらしい)、祝詞(のりと)や忌詞(いみことば)などを使うのも、言靈のはたらきを恐れ、警戒したため、とされている。言靈の存在を信じ、言葉を神秘なものとしてとらえ、あだや、おろそかにしなかったのである。
 こういったことを、とかく現代人は、「非科学的である」とか「迷信である」と安易に決めつけがちであるが、我々の祖先が、いかに敬虔な気持で言葉と向き合ってきたか、その深い謂れに思いをめぐらしもせず、軽薄な価値観によって、先人を嘲笑うかの如きは、実に畏れを知らぬ傲慢不遜な態度というほかない。また、「言葉は時代と共に変わるものです」などと、さも物わかりのよいようなことを言って、乱れた現代の日本語を平然と肯定している「識者」がいるけれども、かかる手合いこそ、日本語を衰滅させ、言靈を駆逐する、唾棄すべき日本文化の破壊者に他なるまい。確かに、言葉は時代と共に変遷する。だが、それは長い風雪の中で、変化を変化とも気付かせぬまま、ゆるやかに、ゆっくりと変化しつつあるのを指していうべきことであって、耳にするだけで明らかに嫌悪感しか抱けぬような、きたならしい言葉まで平然と受容し、認めていこう、という話では断じてない。きたない言葉、乱れた日本語には、強い拒否反応を示すことこそ、真に教養ある人士のとるべき態度である。それにつけても、憶良のやまと言葉の、何と美しいことよ。言靈を信じる者の紡ぎ出す言葉とは、かくも妙なるものなのだ。とりわけ「厳(いつく)しき国」という言葉が好い。「いつくしき」は「美(うつく)しき」にも通ずるが、それだけではなく、犯し難い威厳と気品をも、あわせ持っているさまを表している。ただ「美しい国」と言うより、遥かに深みのある表現だ。「厳しき国」。素晴らしい。そして、まことに国は、かくありたいものである。
 さて、言靈の次は「武士の魂」。武士の魂といえば、刀である。武士にとって、刀は武器であるというだけでなく、武士が、武士たるべき理想像、「常に命がけで事に臨むべし。名誉を重んじ、常に潔くあれ。恥辱を得て生きながらえんより、己の身は己で処すべし。言い訳するべからず」といった道徳観を象徴化した、特別な存在であった。金打(きんちょう)といって、約束を交す際、互いに刀を打ちあわせる行為も、刀に賭けて約定をまっとうする、という固い誓いをあらわしている。誓いを破れば、斬られてもやむなし、という暗示でもあろう。明治維新以後、「武士」という“特権階級”は存在しなくなったが、その後も明治政府は、教育勅語などによって、日本人の精神に、武士の美質を涵養し、はぐくみ続けた。そのため、戦前までの日本人には、武士らしい気風がよく残り、戦後もなお暫くは、凛とした態度と責任感を持って敢然と行動する、気概ある人々がたくさんいて、敗戦の荒廃の中から日本を復興させる原動力となり得た。しかし、戦後の教育は、ガラリ方針を転換し、「生命尊重」「民主・個人主義」「平等」「不戦」「人権」といった美名のもと、日本人の精神に、日本固有の因襲や伝統文化に対する軽蔑心を醸成せしめ、武士のこころの否定と、その払拭とをおし進めた。その毒素は、じわじわと、だが着実に侵蝕を続けて、結果としてあるのが、いまの日本の惨状である。一昔前なら、到底考えられない凶悪犯罪や、目を覆いたくなる無責任な不祥事が続発し、政治は迷走、経済は停滞、公共意識は希薄化し、もはや「志し」といった言葉すら知らぬ多くの大衆は、その場限りの享楽に身を委ね、万事が他人事で、自分の健康と安全と財産以外はどうでもよく、大きな希望も絶望もない、曖昧で投げやりな空気の中で、生の実感すらなく、ただ漫然と、先人の遺産の浪費を続けている。雪崩れのようにとめどない、この日本民族の劣化現象に、如何にして歯止めをかけるかが、喫緊の問題であるが、困ったことに、本来ならば、そんな世論を啓蒙し、リードするべき立場にある筈の「知識人」「文化人」などと呼ばれる言論界の人間たちまでが、実にひどい状態にあるのだ。言いっ放し、書きっ放しの、まさに排泄のように無責任な「言論」が、あまりにも多いことが、その何よりの証である。
 昨年九月、平壌における日朝国交正常化交渉の過程で、ついに北朝鮮が日本国民を拉致していた事実を公式に認め、漸く、この忌まわしい国家犯罪の一端が、白日の元に晒されることになった。その結果、ずっと以前から懸命にこの問題に取り組み、真実をうったえ続けてきた、ごく一部の「真の」言論人の活動と共に、そうではない、多くの知識人たちの迷走ぶりも、次々と明らかになってきた。「拉致事件などでっち上げだ」「北朝鮮が拉致を否定しているのに、無闇に疑うのはよくない」「拉致疑惑は公安の陰謀」などと主張し、拉致の解明を、こんにちに至るまで遅らせる原因となった言説を積極的に垂れ流していた連中が、いかに多かったか。しかし、こうした連中の誰か一人でも、「自責の念やみ難く、自殺した」などといった話は聞いたこともない。せめて筆を折り、とうぶん人前には姿を現せない、というのが、まともな神経を持った人間の態度であろうが、その気も全く無いようである。最低限、己の過去の言説や態度における誤りを率直に認め、きちんと謝罪してから、再び活動すべきであるのに、そうした事例すら、寡聞にして知らない。なお、言い訳満載や責任転嫁満載の“謝罪”などは、本来、謝罪とは言わない。当り前のことであるが、一応、念のため記しておく。
 かかる軽佻浮薄な言論人たちが跳梁跋扈している一事と、現代日本の示す様々な病理とが、私の目には、合わせ鏡のように映っている。言葉とは、人間の精神活動の根本であり、その言葉が「魂」を失って、無惨な姿に成り果てれば、万事がおのずと惨状を呈する、と信じるからだ。そもそも、「言論人」にとっての言論とは、さながら武士にとっての刀にひとしいものである。即ち、武器であるのと同時に“魂”でもあるべきなのだ。武士が、ひとたび刀を抜けば、斬るか斬られるかであり、よしんば相手を斬ったにせよ、その責めは、全て己一身に背負わなければならぬ。致仕して浪人になり、しかも、斬った相手の縁者に仇として命を狙われるリスクがある。それでも、武士の面目にかけ、刀を抜くしかない時がある。その刹那の、凄まじいまでの覚悟のほどを、「言論の自由」とやらに甘えきって、己の発言にすら責任も持たず、ただ言葉を弄んでいるだけの現代の知識人たちは、少しは想像してみるがいい。言論人よ。言葉を発するということは、武士が刀を抜くにもひとしい、相応の「覚悟」をすべきものだ。そんな覚悟すらない奴らが、「ペンは剣よりも強し」などと口にして悦に入っているのは、噴飯ものだ。貴様らは、もはや恥という感覚すら持ち合わせていない、えせ「言論人」でしかない。かつては、自らを恥じて、潔く死を選んだ武士たちと、同じ血が流れている筈なのに、貴様らには、そんな潔さのかけらも見受けられないからだ。貴様らに共通する特徴は、あくまで非は自分にはなく、他にあるとする、責任転嫁の名人であることだ。悪いのは、時に国家であったり、社会であったり、先人たちであったり、政治や時代など、様々であるが、決して自分のせいにはしないのだ。そして、何ら罪悪感すら覚えぬまま、万事ひとごとのような涼しい顔で、相も変わらず、いっぱしの「識者」として振るまい、高みに立った偉そうな妄言を、あぶくのように、ぶくぶくと吐き出し続けている。文字通り、軽いばかりで、ふわふわ風に浮かんでは、あっという間に消滅してしまう“泡沫言語”だ。一体どうして、貴様らのような連中の社会的生命が、安穏無事のままでいられるのか、実に不思議でならぬ。見苦しい。恥を知れ!ともあれ、「言論人」を気取る者がこのざまでは、「責任感」とか「義務」とか、ましてや「魂」などといった言葉が生命力を失い、死語と化していくのも当然だろう。言論の生命を抹殺する者は、国家でも制度でもない。言論人自身だ。そして、言葉が死ねば、やがてその実体も必ず死ぬ。もはやこれ以上、言靈への畏怖を忘れ、武士のこころを持たず、いたずらに言葉を弄ぶだけの、不逞なるえせ言論人どもの跳梁を、許しておくわけにはいかない。連中には、いつの日か必ず、その暴虐ぶりへの報いを受けさせるべきである。そして、加速度的に進む言靈の衰滅をくい止め、魂の言論を取り戻すためにも、心ある者は、今こそ武士の覚悟を以て、衿を正し、性根を据えて取りかかるべきである。言靈の滅びは、すなわち、日本民族の滅びの道だ。
 
 まことの言葉はうしなはれ  
  雲はちぎれてそらをとぶ
 〜宮沢賢治『春と修羅』






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