小金井小次郎

 愚庵天田鉄眼禅師は「東海遊侠伝」一篇を著して清水次郎長親分を世に伝ふ。禅師は次郎長と因縁浅からず、後に其養子とまでなりし人、遊侠伝の此人に由りて書かれしは敢て不思議とせず。茲に予輩が小金井小次郎に就いて若干の言を為すは同郷の故を以て自ら多少の興味を覚へざるにあらず、然れども予は小次郎と直接の交渉なし、又彼に対し悉く感服する者にあらずと雖も、江戸幕府末期に於て尚階級制度の厳存せる時、一農夫の子はたとへ多少の才能のありしも、其家業以外に男子の気を吐く天地を有せずとせば、遊侠伝中の人となりて、一生を奔放裡に送るも亦多少の快事にあらざんや。当年の博徒と、今日の政党者流と比して何れか其心術と行蔵との勝るべき。彼等は本より道義とを合せて之を理解し、之を行ふ者と謂ふべからず、然れども情と義とを行ふに於て一点の私なし、然諾の前に一身を鴻毛に比す、一無頼の乾児と雖も之が為に命を賭するを辞せず、友誼に処しては敢然として克く力争す。而して彼等遊侠の徒には孝心に於て実は嘆称すべき者多し。宜なるかな、今日講談師流の口舌を以て、我が下層社会の人心を化するに於て多大の功課あり、義勇奉公の精神の如きも、道学先生や、宗教家輩の勧説に由らずして、常に根強く且つ力強く、彼等の心胸に或る者の値附けられあるを観る、是皆理の学問にあらずして事の学問なり。日本の国情に於ては此種の事を訓へ事を談ずるの一大国民教育が不朽せられつつあるのは、日本文明の一特質として識者は仔細の注意を致すべきなり。

 勝海舟先生は、新門辰五郎と友とし親みたりき。新門の親分は少年其生家より火を失し、近隣に迷惑をかけたるを慨して、終に一身を消防夫に献げ以て市井の遊侠となりぬ。彼は明治八年八月十七日七十九歳の高寿を以て逝けり。新門と小金井とは佃島の獄中に於て義を契り、兄弟分と為る。小次郎は新門より年少にして明治十四年六月十日、六十四歳を以て其郷里小金井に死す。幾度か死生の間に出入りしたる彼等は、不思議にも其天寿を全ふせり。予は祖国遍路記中、興津清見寺にある清水次郎長親分の碑に就いて誌したり。今武蔵野の閑遊に於て、特に小次郎の墓を弔ひ、其家の現状などを探聞し、頗る感慨深きを覚へぬ。王政維新と為り、官軍は江戸に殺投せんとす、時に小次郎は三宅島に流罪中にありしが、新門の援助を受けて島民の為に井を掘り、業を興し幾多の善行美事を為したりき。小次郎の徳に服せる二千五百の島民は、彼の指揮に従ひて江戸に入り、官軍と一戦を希望したり。幸に江川太郎左衛門の尽力にて、順逆を誤らず、特赦に会ひて江戸に来るや、新門の配下は多く上野戦争に加はりその難に死す、小次郎の心中果たして如何ぞや。天下は既に一変す。而して両侠は生きて此世に会す、彼も一時此も亦一時。成敗利鈍の如き畢竟人生に於て何する者ぞ、只一片の意気こそ千古万古なるべけれ。顧るに所謂明治の功臣なるもの、幾許か今日に伝へらる、而して其尤なるものと雖も、松陰南州の霊に恥ぢざるもの幾人ぞ。吾等武蔵野の野人に於ては却て次郎長を想ひ、新門に懐かしみ、而して這個小次郎の徒さへ、今日廟堂にある厚顔無恥の大臣或は政党々首に比して数等の親しみを覚ゆ。

 小次郎は小金井村の名門玉川勘右衛門の子其先は足利家の臣関勝重に出づ、来りて鴨下村に住し、鴨下を以て姓とす。五代目甚左衛門荒野を開拓し、八十四ヶ村の大名主たり、殊に玉川上水を開き其両岸に遠近の桜樹を移植し、一は以て美観を添ゆ、前項斎藤鶴磯翁撰「小金井桜花碑記」此事を詳かにす。姓を賜はりて玉川と改称し、世々小金井村に住し其家今に繁栄す。小次郎の如きは必しも此家門に相応はしき人物なりとすべからざるも、其性行の上に一片純真の骨頭を有するは、蓋し祖先の化育与つて力あるべし。


 
 小金井小次郎は田中逸平が生まれる前年に亡くなっているので、もちろん両者の間に面識はない。また小次郎の拠点は南部の下小金井(現在の中町)界隈であり、小金井の北辺で生まれ、幼少時に産土を離れた博士が小次郎の存在を意識するようになったのは、ずいぶん長じてからのことだろう。ただ、悉く感服しているわけではない、と書いてはいるものの、私の一身上の体験から断定すれば、侠客と同じ衒気を持ち合わせない者に大陸浪人がつとまるはずもない。それに博士は日露戦役の折、軍属として中国語の通詞を勤めている。実質的な特務機関員であり、今風の通訳とはワケが違う。かなり危険な仕事である。かてて加えて、メッカの巡礼も命がけ、幾度か死生の間に出入りしたるのは、ひとえに新門辰五郎や小次郎に限った話ではあるまい。同病相哀れむ。「小金井小次郎」と題した随想を著す博士の胸中に、郷里の先達に対する親近感が去来したであろうことは容易に想像できる。
 小次郎は関東一円に三千人の子分をかかえる博徒の大親分だった。現代の感覚で実も蓋もなく論じてしまうとヤクザである。小平の親分をボコボコにして縄張りを奪い、売り出した男だから「暴力団」なのかも知れない。しかし、流刑先の三宅島で井戸を掘り、島民のために尽くしたエピソードは紛れもない事実であり、近年小金井市が三宅村と友好都市の盃をかわした時の大義名分になっている。
 もとより世の中には役人や政治家が立ち入れない、否、立ち入ってはいけない領域がある。そこで起きたいざこざを巧みにまとめ、秩序を保つのが親分さん、つまり侠客の役割だった。新門を介して小次郎の兄貴分となった清水次郎長の場合は、徳川慶喜公に従って手狭な駿府へやって来た膨大な旗本御家人、ありていに言ってしまえば失業者予備軍のために富士山麓の開墾を行い、また日本で最初の英語学校を開設している。原動力は金銭でなく義侠心。この時代のヤクザには、現代のNPOに通じる横顔があったことを、一過性の偏見にとららわれて見落とすわけにはいかないだろう。

 なお、小次郎の孫に当る関綾二郎氏は昭和33年、市制に移行した小金井市で初代の市長をつとめている。

 
s30系の大城堀


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