白雲追跡
田中逸平の産土をたどる H17.7.16
無邪思野雑記(一) むさし野の土塊の中に生まれたる小生は、四十年間転々として鶉の居の定まらぬが如く、江湖に放浪して来た。併しそこには一定の軌道のありしか、再びむさし野の古里に回帰し来つて野人的生活を試みてゐる。久しく「日本及日本人」誌上に、生活の余瀝に過ぎざる拙稿を寄せたが、之を通じて幾多の知己を求め得たことを感謝してゐる。一昨年同誌の変革と与に、予の文縁は同誌に無くなつた。爾来一年有半我が生活は頗る陰鬱なる日月を続け来つた。岩戸開が出来て茲に「大日」出現と与に再び「大日」誌上に新旧有縁の諸君に見ゆることが出来るのは、洵に更生の感がある。古記にはむさし国名を無邪志、胸刺、牟邪志、牟射志など、記してある。武蔵の字を用ゐたのは和銅年間以後の事、之も決して悪い字ではないが、予は寧ろ無邪志の三字を愛する、必しも漢文学の余病にて国名を二字に限る必要もあるまい。殊に論語の一句を借りて思ひ邪なきを念として、主静居敬、聊か道の為め国の為に今後の生涯を送りたい。而して「大日」誌上、此拙稿を以て素志の一端を同信同行の方々に通じて見たい。必しも全部と云ふではない、此心霊犀一点通ずるを期すのである。記として序となす。 |
昭和六年二月十五日(「大日」一号) |
天鐘上人こと田中逸平博士(1882−1934)は、すっかり世間から忘れられてしまっているが、我が国におけるイスラム研究の魁である。古神道(禊教)を基礎として、念仏信仰、中国大陸に渡って儒教、道教、そしてキリスト教など、いずれも机上論でなく、実践を通じて学び、やがて「万教帰一」、すなわち人類共生の思想と言うべき理念を達観して、ついにイスラムへ辿り着く博士の思索と遍歴は、9.11事件以降顕在化したグローバリズムとイスラム原理主義の角逐に主体性なく翻弄され続けている平成の日本人に的を得た意識改革の示唆を与えているように思えてならない。博士の論文、随想は、文体こそ戦後生まれの月並みな国語力では追いつくのがやっとだが、披瀝されている見識はいずれも怜悧で生々しく、まったく古さを感じさせない。 博士は明治15年2月2日、現在の「東京都小金井市」で生まれている。もっとも、小金井を含む多摩地区が「東京」に編入されたのは明治22年のこと。博士が生まれた当時、このあたりは神奈川県だった(蛇足ながら、明治5年以前は品川県である)。 さて、こうなると南洋浪人として少なからずイスラム世界との関わりを持ち、常日頃わが身の不浄を棚上げにして王道国家の建設を提唱している小金井生まれの好事家としては、「おれがやらねば誰が地元の先達を顕彰す」といった気負いに駆られるのは当然のなりゆき。深く広大無辺な思想を紐解く前に、まず地元民の視点で博士の生い立ちを探っておきたい。ところが、いきおい調べ始めたものの、「白雲の哲学者」は容易に実体を掴ませることなく、のらりくらりと逃げてしまう・・・ 平成17年7月16日、梅雨の開けやらぬ蒸し風呂のような空模様ではあったけれど、田中逸平博士の産土を検分して頂くため、この三月まで拓殖大学創立百年史の編纂にあたっていた坪内隆彦さん(社団法人日本マレーシア協会理事)にお願いし、小金井へご足労を賜った。 |
「武蔵野行」 「貫井の泉園」 「小金井小次郎」 |
小金井街道にせり出し、よしんば罰当たりな暴走車が突っ込んでも相応の過失割合を問われてしまいそうな水神の祠。芳須翁が記した「田中稲荷」とは謂れがまるで異なるが、他に「西に面した」という条件に該当する祠は発見できず。説明文のほうは写真をクリックすると拡大します。 |
坪内隆彦 著 イスラーム先駆者 田中逸平 イスラーム先駆者 田中逸平・試論 神戸大学電子図書館システム 新聞記事文庫 アジア諸国(7-009)大阪毎日新聞 1934.5.15(昭和9) 本社近東・中亜調査団報告 ペルシアを除いて皆な日本に好意 素晴らしい邦品の進出 険難突破、苦闘百四十日 上海に着いた団長田中逸平氏は語る アラブ イスラーム学院 日・サ関係50周年 日本人初のマッカ巡礼 日本・サウディアラビア両国関係(PDF) |
BACK |