貫井の泉園

 一日小石川白山上の南陽堂書店の店頭にて「滄浪泉園」と題する小冊子を得。瀟洒たる体裁にて誰が園の記なるを詳にせず、発行所も編輯及発行人も誌さず。唯記と地図に依りて貫井弁天の附近なるを知る。即ち国分寺址を訪ねし途次、先ず弁天祠に到り紅葉と清流とを喜び、晩秋之閑寂を愛す。「武蔵野風土記」に依れば「貫井村は国分寺村の東隣なり、或は温井に作る、東は上小金井村に接し、南は府中に及び、西は国分寺村、北は当村の新田なり、弁天社、社地を除き八畝十歩村の北にあり、其地に広さ二畝許の池あり、祠を其狐嶼に安置す、本社二間に一間半、拝殿三間に二間、前に木の鳥居を建て、神体木の坐像、長三寸許、弘法大師作と云ふ」

 今は貫井祠にあらず、貫井天神社なるが、是又神仏分離の結果にやあらんも貫井弁天こそ名も実も此地にふさはし、社前にプールあり水極めて清冽。小を辿り数丁を東すれば、一大石柱に犬養木堂の筆になれる滄浪泉園の四大字を刻す、長屋門厳しきも外観已に荒廃せり、門番の婦人に何人の有なるやを問へば答へて曰く、代議士波多野承五郎氏の別墅なりと。請うて園中を観る、規模頗る宏大、樹木森々、幽邃の仙寰なり、但滄浪の水既に汚り桜を濯ふに堪へず、当屋亦震災以来修理を加へず、好園空しく狐狸の場に委するは洵に惜むべし。予園主に知あらば請うて之に借寓し、又施す所あらんかなど独念しつつ此を辞し、国分寺駅より汽車にて直ちに所沢に至る。



 貫井弁天を実見する坪内さん(左)。御神域の池は、いつしか外来種のアカミミガメに乗っ取られてしまっていた。博士が書きとどめたプールは大正13年に地元の青年団が勤労奉仕で作ったもの。私が小学校に上がった昭和40年代半ばまでは健在だったが、現在は駐車場になっている(右)。


何年か前の年の瀬に撮った貫井弁天の紅葉。

 
 滄浪泉園皮肉にも、滄浪の水既に汚り桜を濯ふに耐へない風情は、博士が散策した往時を忠実に偲ばせる。貫井弁天の泉といい、滄浪泉園の湧水といい、この日は最近にしては珍しく、はけの地下水が元気よく流れ出していた。坪内さんをご案内している手前、さりげなく嬉しく思った。


武蔵小金井駅北口の喫茶室たきざわで高木市議(右)と合流。
店のマスター・乙黒さん(中左)は、世が世なら歌舞登家の主人。



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