世良田男爵の独逸国見聞録

3月14日 オペラ座にて楽劇『ワルキューレ』観劇の事


 開始は6:00。終了たるや11:30。休憩を挟んで、5時間以上にも及ぶ長丁場であった。
 いま、もう12:00過ぎたし明日は明日で用事もあるからあまりゆっくり書いてもいられない。だが、この感動を少しなりと記しとどめたい、といふ欲求に抗するは不可能だ。だいいち眠れまい、と思し召す我なり。だから少しなりと書こう。

 一言でいうなら「予はおおいに満足じゃ」であった。列も前から2列めで俳優の表情もこれ以上ないくらいはっきり見える。ただ券でこんな良い席座ってもいいのかしらん?住民登録をした際に、役所でくれた券のことゆえ、前回ジモーネと来た時同様、せいぜい舞台から遥か彼方の桟敷席か、と思っていたのに豈はからんや。周りはいかにも小金持ち、といった格好の---といふより、ま、常識なんだろうが---ともかくドレスアップした紳士淑女ばかりで、吾輩のやうな「かじゅある」な装いをした人士は皆無であった。前回の席だと、学生風の装いもちらほら目についたのだが。もっとも、白い目や冷たい視線や嘲笑だのを浴びることは全くなく、さほど気にもならぬ。

 さて本日午後は、ずっと今日のオペラ『ワルキューレ』に備えて予備知識を仕入れておこうと思い、手許のドイツ語の辞書を引きつつ、百科事典で関連事項を調べておいた。これは矢張りやっておいて大正解だった。何せ原作である『ニーベルンゲンの歌』、まだ一度も讀んだことないんだよ、おれ。よくこれでルートヴィヒが好きだ、なぞと日頃広言しているものだ、と我ながら呆れる。

 で、まぁこの「予習」のおかげもあって、吾輩、舞台を理解するにおおいに役立ったんである。何せ台詞は勿論全てドイツ語だし、予想通り殆ど聞き取れないし、数えていたわけじゃないが分った単語はせいぜい10個程度だろうか。それでも予備知識のおかげで、相当に理解可能となったのだから、考えてみれば映画とはわけが違う、ひと頃のドイツ人ならば皆知っている民族の英雄叙事詩なのだから、演じ手は大袈裟な身ぶり仕草をしてくれるわけだし、またちょうど我々日本人だって、いちいち台詞の細部まで聞こえずとも、『忠臣蔵』や『櫻井の別れ』や『勧進帳』等おおむね理解出来、感動するのと同じようなものだろう。勿論、それには音楽の力も預かって余りある。おかげ様で、盛り上がるところでは痺れるような感動、はたまた涙が出そうな感動もあって、さすがに生のオペラの神髄、ここにありという感じであった。
 当初は5時間もの長さに辟易するんじゃないか、との危惧もあったが幸い杞憂に終わった。この前の『マダム・バタフライ』は『ワルキューレ』の半分以下の時間だが、遥かに長く感じたものだ。改めて人間の感じる長さは具体的な時間よりも内容によるのだな、と実感。

 演奏も歌手も相当に上手だった。そして、今までワーグナーに関して分っていた積もりの事が、実はとんでもない間違いだった、といふことも判明。今日という今日こそ、初めて「ワーグナーの天才」の一端に初めて触れたのだ、と思う。過去、予は「ワ−グナーなんてハイライトだけで充分、全曲演奏なんて退屈だ」と言ったことがあるし実際今日までそう思ってきた。だが、ワ−グナは総合芸術としてのオペラを目ざしていたのだ、とようよう実感出来たのだ。つまり視覚、聴覚双方を同じくらい重視した音楽劇。要するに、ワ−グナの楽劇とは、そもそも映像なしで鑑賞すべきものではなかったのである。そこに気が付かず、歌詞すら分らぬものを音だけ聞いていたのでは、まるで外国のテレビドラマを映像無しで音だけ聞いているようなもの。つまらないのが当然だったわけである。

 肝心の演出だが、矢張り少しモダンかな、と感じた。マダム蝶々よりは数倍ましであったが、セットもちゃちだし、衣装も豪華とはおよそ言い難い。それでも充分堪能できたのだから、これは俳優(歌手)と音楽の力であろう。だからもしこれがワ−グナ自身で設計したバイロイト劇場や、ドレスデンやウィーンといった、本格派中の本格派オペラハウスで、古式に則った衣装やセットで演じたのを見たなら、どれほどぶっ飛んだことか、想うだに慄えが来る。また今日のそれとても、衣装やセットに若干の不満はあったにせよ、個々の俳優の動き等、相当に細かく設定されていて、なかんずく第三幕は9人のワルキューレたちのそれぞれの仕草挙動がとても面白く、飽かず眺め入った。また彼女らの衣装はとても奇抜であった。まるでロックねえちゃんか、気取ったSM倶楽部の女王さまか、はたまた派手めな女暴走族か、と見紛うばかりの悩殺コスチューム。しかも、よくよく見れば一人一人、その個性に合せて細かく異なっているのである。あれは実に良かったぞよ。予の好みぢゃ!

 唯一残念だったのは、主役格のジーグムンデが、歌はかなり上手かったもののルックスがいまいちだったこと。デブ。もっとも開会前の挨拶では誰それが急病で代役が、とか言ってたから、こいつがそうだったのなら文句は言えない。

 更にいふなら、ヒロインのジーグリンデがほっそりした美人なのに、歌声にとても艶があって、実に上手かったのも印象的。オペラ歌手はデブでなければ勤まらない、というのはもう遠い過去の話だろう 。かかる舞台に視覚効果が如何に重要かを思うなら、ビア樽歌手に未来は無い。まあそれでも、なんびとも寄せつけぬ歌唱力があるならば、せめてオペラには出ないで、スタヂオ録音か個人リサイタルだけに徹してほしいものである。頼む。

 さて本日一番のお気に入り、ワルキューレ9人衆の中にも、まるで少女みたいに小柄でほっそりした女の子(と言った方が適切)が2〜3人いたが、いずれもきわめて魅力的な容姿であるばかりか、声もしっかり出ていたので驚き。どこからあんな声が出るのだ?

 ここでちょいと補足しておこう。そもそもワルキューレというのは、北欧神話中のバルハラ(天上界)の「戦いの乙女」で、この劇においては大神オーディンの9人の娘たち、ということになっている。戦場で死んだ勇士の中からこれはという者を選びだし、接吻をすることによって永遠の生命を与え、天上に連れ帰るという役目がある。かの有名な『ワルキューレの騎行』はそのシーンを歌ったものだ。勇士であることが最上の美徳であった、いかにも古代ゲルマン民族ならではの神話である。天上の美女たちによって永遠の命を与えられ、しかも天上に連れて行って貰える、と信じていたればこそ、戦場では常識を超越した勇気をも発揮しえたのだろう。ゲルマン民族が戦いに強かったのはこの信仰があったからだらうか?

 ともあれこの吾輩、「戦いの乙女」らが美女であればあるほど、痺れるような陶酔感をも覚える次第である。かのフランス大革命にはサン・ジュストといふ伶俐な美青年が「死の大天使」と謳われたけれど、ワルキューレにまれ死の大天使にまれ、氷のような美しさ、たとえれば宝石や氷の中で青白く燃え上がる炎のような、独特のエロティシズムがある。かかるものには無条件に魅かれてしまうな、わたし。また、男というものは心のどこかで、美しい死の大天使や絶世の美女に殺されたい、連れて行かれたいというマゾヒスティックな倒錯した欲望があるようである。『宿命の女』もこの口だろう。ぞっとするほどの美貌をもつ美女が鋭利な剣を手にしている絵画や、その艶かしい肉体を鋼鉄の鎧に覆われている姿、等等、こういったものをとりわけ好む深層心理には明らかにこの種の倒錯がある。一時期我が国でも流行ったボンテ−ジファッションだの皮のパンツを女がつけたりだのを好む心理も、これに含まれるかもしれない。今日みた9人のワルキューレの中にも、かのクラナハ描く『ユーディト』の絵を彷佛させるのがいて、なんともエロテイックに思えたものだ。

 残念ながら、我が民族固有の神話にはこの種のエロスは皆無に近い。そういえば神宮皇后が鎧をつけていたな、とか、そのほかではあの巴御前がいたっけ、とか一応思い出しはするのだが、いずれもあまりエロティックとはいえない。幾ら美女であっても30人力の豪傑と平気で戦って、その首を取るんだから物凄いが、それはちと質が違う気がするしな。もっとも、それこそ「解釈」の問題だから、一度この手の話を強引にこじつけて作っても面白いかもしれん。勇武を至上の美徳とした点では、日本の源平時代も古代ゲルマンに劣らないし、日本史で最も好きな時代でもあるし、木曾義仲も最も好きな歴史上の人物だ。義仲率いる美女部隊、なんて演出も存外いけるかもしれんぞ(ほんまかいな)。

 だいぶ脱線したので話を戻そう。で、ワルキューレの一人で、最も武勇に優れ、また父神オーディンのお気に入りでもあるブリュンヒルデ姫が、父の教えに楯突いて、勇士ではないジーグリンデを天上に連れてきてしまったことから罰を受けることになり、ついには人間界に追放される。そして、そこで森の中で誰かに発見されるまで永遠の眠りを与えられる、というところでこの劇は終わるのだが、それがあの有名な『眠り姫』或いは『いばら姫』のモチーフになっているのもなんとも興味深い。

 最愛の娘に罰を下さざるを得ないオーディンの悲痛な歌声には感銘したし、姉(妹)の為に哀訴して合唱するワルキューレたちも実に良かったなぁ。良い歌(劇)は、(歌)詞が分らなくても何とかなるものなんだな、と痛感せり。ここから先は予の想像だが、ジーグリンデは後のジーグフリートを孕んでいるのではあるまいか。そして物語は『指輪』第三部『ジーグフリート』へと繋がって行くのではあるまいか‥‥何せお恥ずかしい、まだ『ニーベルンゲンの指輪』、讀んだことないものでね。盲蛇に怖じず、で讀んでいない奴の想像を更に開陳するに、そこで自分の母ジークリンデを救ったブリュンヒルデが、今度はこのジーグフリートを殺す側につくわけだ。実に今後の展開も因果が絡んで面白いね(ゲルマン民族に因果という意識は無かったろうが)。帰国したらまず絶対『ニ−ベルンゲンの指輪』は必読せずばなるまい。それと『ワルキューレ』はビデオを買うぞーさん!(註:生憎、まだ讀んでいないしまだ買っておりません。『ワルキューレ』についてですが、どなたか古典音楽に詳しい方、誰の何時のどの演奏が素晴らしいのか、御教示下さいませんか。

 もっとも第一幕、追っ手を逃れて逃げ込んできたジーグムンドが暗がりで妹のジーグリンデと邂逅し 、そこで朗々と歌い始めた時には「こら、お前!夜中だってのに、しかも追われている分際で、そんな大声を出すんじゃない!」と思ってしまったり、また一等最初にワルキューレの衣装を見た時は森茉莉になるところだったしで(周囲が真面目に見ているのに一人だけ大声で笑いそうになった、という意味 =森茉莉『マリアの気紛れ書き』参照)、オペラ慣れしていない身をひしひしと感じた。

 だが実際のところ、もしもかの月王ルートヴィヒやワ−グナー閣下が生きてこの『ワルキューレ』を見たら随分嘆いたかもしれんな、品が無いって。特に第三幕の出だしは、ゾンビあるいは山海塾みたいな白塗り男優(戦場の死者の積もりなんだろうがそれにしても安っぽい)を次々天上に運んでいるシーンで、乙女らが皆ひどく浮き浮きと「仕事」している様は、まるでドイツの若い娘っこがディスコで楽しく踊り遊んでいるような感じさえしたなぁ。セットもディスコなみにちゃちだったし。クラブ「バルハラ」で踊るワルキューレ、とでも言えようか。もっとも俺は気に入ったけれどね。あの衣装のまんま、一番のきれいどころを3、4人選びだして、そのものずばり『ワルキューレ』とでも名乗らせてデビューさせたらかなりいけるんじゃないか、と思った。

 さういへば、第二幕も相当笑えたぞ。バルハラにおいて、大神の下す司令を受けて、ワルキューレたちが世界のあちこちの戦場に飛んで行く場面だが、オーディンは見るからに安っぽい巨大な世界地図のスクリーンを前に仁王立ちし、杖で行き場所をワルキューレたちに指し示すと、乙女どもは皆嬉々として、おのおのの持ち場に飛び去ってゆく、って寸法だが、まるで安手のスペースオペラ。でも、つくづく皆可愛いおねいちゃんたちで、をぢさんは嬉しかったよ。

 ざっとまあ、こんなところか。それでは1:00も過ぎたのでこのへんで。ちゅ、ちゅーす。




追記1: このオペラ座では、途中30分もの長い休憩をとり、その間オペラハウス内のカフェを開くのであるが、そこでは紳士淑女らが今までの感想等を語り合いながら、ワインやビール、ホットドッグ(ソフトドリンクもあるがおれは勿論ビアーね)等を味わう。大きな窓の外にはライン川。気分がほぐれて非常に愉快である。日本みたいに、オペラというとやたら高価でやたらに鯱ほこばった雰囲気は、ここには無い。また、こうした場に付き物の馬鹿で軽薄な、やたら大声で騒ぐ若い女もいない。


追記2: 終了は11:30。街はすっかり夜の帳が降り、昼間の賑わいもいま何処。それでも2、3カフェや居酒屋が開いていて、そういった店の決して派手ではない、さりとて侘びしくもない灯が石畳の道を照らし出している。そういった石畳を歩き、やがてミュンスター広場を横切り、薄明かりの中で大聖堂を見上げながら、たった今まで堪能したオペラを思い出しつつ歩く。‥‥こうした気分も日本ではまず決して味わえぬものだ。どんなに素晴らしい芝居を見ても、一歩表に出ればすぐに雑踏、喧噪、猥雑で下品でうんざりする光景が、これでもかと目や耳に入って来てしまふものな。事後もまた静寂が継続し、感動を噛み締めつつ歩いていけることの、何と幸福な事よ!











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