世良田忠順寄稿

平成16年 三月号
日本よ、大志を抱け
〜平成版・八紘一宇の精神(後編)


 国家には理念が必要
 軍事に関わる問題ともなると、途端に腰くだけとなる態度に象徴されるように、今の日本には、日本という国家がいかにあるべきか、その方向性を、勇気と共に毅然と示せる政治家が、極めて稀である。
 戦前の日本には、確かに「志」と呼ぶに足るものがあった。「富国強兵」「和魂洋才」「八紘一宇」「五族共和」「王道楽土」などの、明治時代や戦前の日本を形容する際に用いられる言葉は、国民全員の悲願であった不平等条約の改正や、欧米列強諸国と肩を並べる強国となる事、ひいては、欧米に支配されていたアジア諸国の解放、人種差別の撤廃、東亜永遠の平和、などといった、いずれも高い理想を日本が抱いていた事を示すものである。武運拙く大東亜戦争は敗北したが、その時の礎があればこそ、現在の経済発展もあり、欧米による圧制の軛から解放されたアジア諸国がある事を思えば、その歴史的な意義の大きさは計り知れない。畢竟、我々の先人達は、日本という国家の使命感に燃え、貧しさや苦しみにも堪えながら、共通した偉大な目的の為に一致団結し、まさしく火の玉となって突進したのである。
 現代には、その事をすら「国家にただ奉仕させられた不幸な人々」だの「自由の無かった暗黒時代」などと非難する風潮があるが、ならば訊ねたい。現代はそれほど「幸福な時代」なのか。皆が謳歌しているというその「自由」とやらは、そんなにも素晴らしいものなのか。やれ自由だ、個人主義だと威張ってみても、現実を見れば、虚ろな目をして「生きている実感が無い」だの「本当の自分はどこにいる?自分探しの旅に出たい」だの「何も面白いことが無い。生き甲斐が無い」などと口にして、ただ何となく、ふわふわした日常を送っている者や、義務や責任や宿命といったものとは一切無縁な、甚だ「自由」らしき状況にも関わらず、徒らに社会への不平不満を燻らせ、欲望が満たされぬ苛立ちから、つまらぬ犯罪行為に走るような人間が、実に多いではないか。そのような無意味、無気力な「自由」よりも、かつての「不自由」の方が、遥かに崇高な輝きを有しているように、私には思えるのだ。

 「高邁な理念」に懲りた日本人
 戦後の日本人は「国家の理念」「崇高な国家目標」などと耳にすると、「もうそんな大それた事はいいじゃないか。こじんまり、個人の小さな幸福をそれぞれ追求していけばそれでいい。天下国家を論じてどうなる。世界の為、などと言ってどうなる。大国でなくたっていい。小さな島国らしく、ちんまりまとまっていこうよ」などと言う輩が増えた。情けないといえば情けないが、一方で、無理からぬ面もある。
 アジア諸国と有色人種の解放を唱え、欧米列強と敢然と戦った我が国は、その結果、惨澹たる敗北を喫し、国は焦土と化し、多くの国民を死なせてしまった。しかも、それでアジア諸国から感謝されたかといえば、中共や朝鮮からはかえって侵略者呼ばわりされ、巨額の“賠償金”を、強請られる儘に、這いつくばって貢ぎ続けている。こんな惨めな目を見るくらいなら、「もう懲り懲りだ、自分の事だけ考えて、小利口に生きていこうよ」という気になるのも、分らぬではない。
 だが、本当にそれでよいのだろうか。己の財産や、老後の生活や、一身上の安全を心配するだけの人生で、本当に満足出来るのか。だとすれば、「人間存在を崇高なもの」とする“ヒューマニズム”なる概念や、「人権」などという、現代では「普遍的」とされている観念の正当性も、根底から疑ってかからねばならなくなろう。ヒューマニズムとは「人間は崇高な行為に歓びを覚える動物である」という認識が根底に無い限り、成り立ちようの無い概念だからである。

 武士道を復活せよ
 明治維新に際し、武士階級は己の特権を抛った。強固な既得権である筈の「身分」を失うのだから、もっと強い抵抗があっても何ら不思議ではなかったのに、粛然として両刀を投げ出したのである。列強の侵略の魔手が迫っていた未曾有の国難の時代、「私」の権利のみ主張するのは亡国に繋がる事をしっかりと見定め、己の一身以上に、国家に対する危機意識が旺盛であったからであろう。そして、それを可能にしたのは、江戸三百年を通じ、「私」の利益よりも「公」のそれを重んじる武家の教育が、一人一人の武士の精神に、血肉となるほどに徹底して染み渡っていたからに他なるまい。
 一方、国難にも関わらず、既得権にいつまでもしがみつき、決して手放そうとはしない現代の政治家の姿たるや、全く見苦しいとしか言い様が無い。だが、それもまた「個人が一番大事」という戦後教育が骨の髄まで染み渡っている「民」の代表の偽りない姿であり、「公」より「私」を優先する、我々「私民」達の、鏡に映る姿なのである。
 戦前には、まだ武士道教育に匹敵した「教育勅語」や「修身」というものがあり、それによって、日本人は滅私奉公の精神を培い続けていた。ちなみに「滅私奉公」とは、決して個人の権利を否定する言葉ではない。ただ、一個人を超えた大きなもの、家族、共同体、村、町、ひいてはそれらの最も大きな単位である国家の危急に際しては、「私」よりも「公」が優先されるべきであるという、至極当然の意味に過ぎない。エゴイズムがこれだけ蔓延している現代ですら、我々は、自衛官、消防官、警察官、看護婦といった人々の仕事ぶりに、滅私奉公の精神を垣間見ることが出来るが、かつてはそれが、国民一人一人にもあったのである。敗戦後の日本を廃虚から立て直す事が出来たのも、そんな精神が、人々の根底に生きていたからこそであろう。
 かかる精神性を喪失し、高邁な理念を語れなくなった国家は、大局観に則った国家戦略を持つ事も、世界に向けての毅然とした主義主張も、何一つ出来はしない。只管に周囲の顔色を卑屈に窺い、右顧左眄するのみである。
 かつての清帝国や朝鮮王国末期の政治家や官僚は、国の事など二の次で、自己の特権を固守する事のみに汲々とし、民もまた、そんな政府の有り様に不満ばかりを鬱積させ、ついには国が崩壊した。今の日本に、その当時の清や朝鮮とかなり似通った空気を感じるのは、私だけであろうか。
 国家を背負うに相応しいのは、大衆の卑しい部分を肥大化させたような、ポピュリズム政治家では断じてない。維新期の武士階級の如く、公の為には自我を捨てられる者、確固たる理念を持って、強靱な知性と指導力を持ち、たゆまず前進する者、いわば、日本民族の粋を体現した、真のエリートであるべきなのだ。

 平成の「八紘一宇」精神
 さて、日本という国家の安全保障と共に論じられるべきは、この「地球」という星の安全保障である。何も「異星人の侵略に備えよ」などとSF小説じみた事を言うつもりはない。所謂「地球温暖化」問題、ひいては、環境、資源、人口、食料等に関する諸問題である。目先の生活しか頭に無いと、将来的に大きな破局をも招きかねない、かかる重大問題にすら、なかなか目が行き届かなくなるものだ。経済も年金も福祉も、自由も娯楽も教養も、全ては日本という国土、ひいては地球という母星が安泰である事が大前提にも関わらず、である。
 とりわけ、保守の側に立つ論客は、この種の問題を、これまで等閑視し過ぎてきた嫌いがある。結果、環境問題と名が付くものには、狂信的な動物愛護団体や、「地球に優しく」などと歯の浮くような妄言を唱える、ヒッピーもどきのような連中の、いかがわしい活動ばかり目立つ。しかし、地球砂漠化や環境悪化、食料・資源の不足という問題は、保守と革新、右翼に左翼、親日家と反日家とを問わず、今や全人類にとっての喫緊、かつ共通の問題である。あだや疎かに考えるべきではない。
 知人にこんな事を言う男がいる。「もはや右だの左だの言っている時では無い。太古より自然界の万物に神を見い出し、決して自然から収奪し過ぎる事無く、自然と共生・協調して生を謙虚に営んできた古えの日本人の精神こそが、これからの世界には必要になる。古き日本精神と現代日本の先端技術とを融合させ、枯れ果てた土地を再び緑化してみせよう。これぞ平成の御世に相応しい“八紘一宇の精神”ではないか」と。目下、地球緑化運動を目的とするNGO法人を立ち上げるべく奮闘中の彼は、こうも言う。「南京大虐殺だの従軍慰安婦だの戦後の清算だの、言いたい奴らには言わせておけばいい。我々はそんな雑音は一切無視し、そういう連中をも瞠目させるような事をやってしまえばいいのだ。中共だろうが朝鮮だろうが、砂漠を緑化して貰って厭な気持はしないだろう。要は実績を示す事だ。奴らを黙らせるだけの事を、今の日本人もやらなけりゃ駄目なんだよ」----- その気宇壮大、これこそ「志」というものである。やれ不景気だ、老後が不安だ、などとしょぼくれた事ばかり言っている昨今のへたれた日本人も、このように意気軒昴たる理念を、国家や政治が率先して提示してくれたなら、どれだけ勇気付けられる事か。今の政治家諸君に、それだけの「志」を抱く人が果たして幾人いるだろうか。





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