靖国神社に祀られた乙女たち

靖国神社 編


 この記事は、以前、靖国神社就館のwebサイトに出ていたように記憶しておりますが、現在見つからないため、テキスト部分を任意で書籍から抜粋し、ここで紹介させて頂きます。(事務局 謹言)


   逓信省電話主事補

    高石ミキ命   二十四歳
    可香谷シゲ命 二十三歳

   逓信省電話事務員

    伊藤千枝命   二十一歳
    吉田八重子命 二十一歳
    志賀晴代命   二十一歳
    高城淑子命   十九歳
    沢田キミ命   十九歳
    渡辺照命    十九歳
    松橋みどり命  十七歳

   昭和二十年八月二十日歿(自決)



 北海道最北端の地、稚内。遥かに樺太をのぞむ丘の上に「氷雪の門」が立っている。この門は終戦時に非命に斃れた樺太島民慰霊碑である。この氷雪の門に寄り添うように「九人の乙女の像」がある。高さ一・八メートル、巾二・四メートル、登別石の屏風状の碑には交換手姿の乙女像の銅版レリーフがはめ込まれ、「皆さんこれが最後です。さようなら。さようなら。」の最後の言葉が刻まれている。


  戦いは終わった。それから五日。昭和二十年八月二十日ソ連軍が樺太真岡に上陸を開  始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始まった。
  戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女らは、死を以って己の職  場を守った。
  窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい「皆  さんこれが最後です。さようなら。さようなら。」の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢  多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。
  戦争は再びくりかえすまい、平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む。

 右はこり碑の説明文である。
 昭和天皇・皇后両陛下は、昭和四十三年九月二日札幌で開催された北海道百年記念式典に御臨席なられ、式典後北海道各地を御視察途次、同月五日「九人の乙女の像」の前にお立ちになり、稚内市長の説明を受けられた。後日、昭和天皇はこの時の御感慨を次のようにお詠みになられたのである。

 樺太に 命をすてし たをやめの
              こころおもへば むねせまりくる

 同時に皇后陛下(現皇太后)よりも

 樺太に 露ときえたる をとめらの
               みたまやすかれと ただいのりぬる

 の御歌を賜っている。この御製と御歌を刻んだ碑は、翌四十四年八月「乙女の像」の辺りに建立された。
 八月八日対日宣戦布告、九日北緯五十度の国境線を突破したソ連軍の動きに対し、樺太庁は急遽在留邦人の本土への緊急疎開を決め、六十五歳以上の老人、十四歳以下の子供及び婦女子の引揚げを開始した。しかし当時交換業務を直ちに男子に交代する準備が急速に整わないことを察知した真岡郵便局の電話交換手たちは、ほとんど全員自ら進んで残留を申し出た。互選の末通信確保のための最小限度二十名が決死隊として踏み留まることとなった。
 八月九日、日ソ中立条約を一方的に破って参戦したソ連軍は北緯五十度の国境線を突破、怒涛のごとく南下を開始した。そして八月十五日。終戦。しかしソ連軍の進攻はやまなかった。むしろその進攻に激しさを加えてきた。戦禍に追われた罹災者たちは長蛇の列をなし真岡の町をめざした。
 八月二十日、霧の深い早朝真岡の沖にソ連艦隊が現われ、艦砲射撃を開始した。街は焔に包まれ、戦場と化した。上陸したソ連軍は海上の艦隊と呼応して放火を浴びせつつ、町内に侵入してきた。この時、高石ミキ電話主事補以下八名の宿直者と、二十日局からの連絡を受け局に駆けつけた志賀晴代電話事務員の計九名が局に居て交換台に着き、時々刻々の緊急情報連絡と交換業務に従事していた。やがて二階の窓越しに見る街には激しい銃声とともに恐ろしいソ連兵が押し寄せてくるのが見え、間もなく局舎に侵入してくるに及んで万が一を慮り服毒自決をとげたのである。
 時は流れて五十余年、今日も「乙女の像」は真岡を望もうとするかのように立っている。だが多くの人はその事実を知らない。一人でも多くの人々がこの受難史を知り、彼女たちを始め樺太で散った多くの同胞たちの冥福を祈りたい。
 彼女たちは昭和四十八年三月三十一日、戦没者叙勲として勲八等宝冠章を授与された。




 この記事は、靖国神社編『靖国神社に祀られた乙女たち 戦歿女性遺品展の記録』から、「真岡九人の乙女」の頁を抜粋したものです。文中に「(現皇太后)」と記したところがありますが、『靖国神社に祀られた乙女たち』は、皇太后陛下が崩御される以前の平成十年十月発刊の書籍で、原文をそのまま引用しました。ご了承ください。










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