武蔵野行

 吾は日本を礼拝す、是れ霊なる我が祖国なればなり。吾は日本の内にて殊に武蔵野を愛す、是れ我が生まれし郷土なればなり。然れども吾等は現代日本に於て決して恵まれたる人にあらず、又吾が郷国にても何等楽しき生活と、その印象とを有するものにあらず、左れど祖国に忠なるに於て人後に落つるを思はず、郷土を慕ふに於て亦他の郷人に劣るべくもなし。昔傑僧日蓮は房州の海浜に生れ自らセンダラの児なりと云へり。英雄秀吉は尾張中村の百姓の子と謂ふる恥ぢざりき。予久しく海外に在りて日本人たるを名誉と信ぜしが如く、実に武蔵野の土塊の児たることを以て自ら恥づべしと為さざるなり。

  武蔵野に草は品々多けれど
      摘菜にすればさても少なし

 実に武蔵野は文化に遅れし草野なりき、古来必しも多くの人物を出だせしと謂ふべからず。大和本紀に曰く「当国秩父の山高く形勢勇者の怒りて立つが如し、日本武尊之を見以て美なりと称し東征の兵具を以て岩蔵に納埋し給ふ故に武蔵と名く」と。名辞紀元の真偽を知らざるも、武蔵野の中央に立ちて見る山野の形勢は取りとめて謂ふべき景色ならねど、只天地自然の真境を味得すべきものあり。畠山重忠を思ひ、熊谷直実を思ふ。殊に太田道灌江戸に築き城内別に東西二軒を営み静勝含雪と号す。

  我が庵は松原続き海近く
       富士の高嶺を軒端にぞ見る

 と詠ぜし武将は、蔵書万巻を楽むの襟懐あり、武蔵野文化の先駆たりき。然れども江戸以前古代に於て武蔵野の中心は今の府中国分寺ならざるべからず。東京より此地に通ずる中央線の鉄路は二十里、些かのカーブもなく坂路もなく一直に通ずるの一事にても我が野の特色を思ふべし。予は実に府中の近く武蔵野の中央、小金井村桜樹の下に生れたる一士農の児なり。但し生れて三年の春、落花と与に故里を離れて転々定処なし、放浪四十年更に半生を白雲に託し、骨をパミール原頭に埋めんことを素願と為す。桜堤玉水吾故里の本より親しむべく愛すべしと雖も此に長ぜしにあらず、竹馬の友を有するにあらず、一去又故土を省みず、只土塊の野生を支那大陸に運び、亜細亜諸国に提げ益々野人たる本能を打成し来りし外又誇るべきなく。故郷に飾るべき錦衣なくして遂に之を問はざりき。

  六月二十五日地久佳節に当る、好晴気涼秋日の如し、小子を拉し小金井村鎮守天神祠に詣づ。此日は天神祠の月例祭日なり、而してイスラム子には又金曜の聖日なり、我氏神に詣づるには真に吉日なり。祠は小金井駅の西方十町、西の台にあり、社格は村社なりと雖も社境千数百坪、殿舎の結構頗る古雅、四百余年の老杉天に冲し、社頭に立ちて一望すれば多摩流域の快濶なる野を越えて富岳に相対す。古昔武蔵野七井の一たる小金井の清泉近くに迸出し、頗る幽邃の地なり。社掌星野甲子三郎翁を訪ねて大禊の式を受く感慨無量神霊在すが如きを覚ゆ。生時始めて故里に氏神に謁してより殆ど四十年碌々たる半生を懺悔し、更新を祈る。洵に古道顔色を照す者あるを痛感す。社務所に星野翁と語る、翁曰く足下の兄弥太郎君とは村学にて同窓竹馬の友たりき。足下の父母乃至祖父母とも熟懇なりき。かくて翁は予の知らざる我が家の事を以て告ぐること仔細を極む。祖父母は勿論父母も兄も皆故人たり。北京に客遊中父を失ひ北海に母の訃を聞き、東魯の寓に死の数月前に家兄を迎へしが終に永別又会するを得ず。彼は官陸軍一等軍医正を以て逝きしと雖も凡材に非ざりき、西比利亜出征より帰り病を得て倒る。志多く伸びざりしも又此地の産せし一人物に数ふべく哀惜何ぞ堪へんや。
 桜堤数里の深緑も又愛すべし、小金井橋畔故宅の址に佇立既に無限の意あり。三百万都人士を養ふの清流滾々として迸下休む事なし。又是無限の意、逝く者は皆此の如く昼夜を舎かざるなり。明治十六年四月三十日明治大帝軍駕此地に臨幸時正に三春花時、桜雲花香の下に群臣を会して宴を賜ふ。当年の玉座は我が故宅の門前なり、今碑ありて之を表す、文と書と磯貝静蔵氏の筆、銘に曰く

 玉川金井、花麗春晴、昔芳山種、今三里桜、宸実攸及、臣民攸栄、題松勒石、行幸之名

 小金井の花は本と吉野の桜を移植せしも、多年変種して五彩各色天下の珍とすべき者、而して其老樹多きは吉野に於ても比すべき者を見ず。乃ち桜花を称せんか日本第一名勝の地と謂ふべし。此名花あり、此珠泉あり、而して地霊一個の人傑を出さず、吾子会々故里を省みて太だ天地に恥づ。海岸寺前小金井桜碑あり之を拓す、文と字と処と名碑と為すに足る。(後略)
 小金井村鎮守天神祠とは、天満天神、つまり現在の小金井神社である。「小金井駅の西方十町」という記述は、辰巳(東南)十町の誤りだろう。西之台という昔の地名は小金井神社界隈のほかに、現在の貫井北町五丁目の西部(国分寺との境界付近)に分かれている。後者は「小金井駅の西方十町」と見做せなくもないが肝心の天神さまはいない。おまけに星野甲子三郎翁は山王稲穂神社など、幾つかの社の宮司を兼ねていたため、余計に推論をややこしくさせている。もっとも何事も大雑把な異郷で長く暮らしていると、故郷の地勢など枝葉末節に感じられてくる心理はよく理解できるので、これは博士が平成の後進に与えてくれた推理のリクリエーションと弁えておこう。
 それにつけても、「一体何処の仙境か?」と身を乗り出してしまうほど、叙景された社の周囲は如何にも水量が豊富である。現在は南を流れる野川もしばしば涸れ、湧水も多くが死に絶えた。諸行無常の理、ここにも認めることができるのが、いささか辛い。(写真は冬場に撮影したもの)


 
 小金井橋畔は、北西が小平市になる。明治中期は小川新田。博士の生家が小金井村の領域となると、考えられるのは現在クロネコヤマトの宅急便が陣取る南東の角。ここには昭和2年以降、歌舞登家(かぶとや)という粋な料亭があったが、開業以前の縄張りは不明。時系列を思い切り遡らせると、歌川広重の錦絵には茅葺屋根の人家らしき構造物が描かれていたりするので、明治中期は住宅地だった、と類推しても無理はあるまい。
 坪内さんと協議の上、この角を田中逸平博士の生誕地と決定する・・・・いいのかな?

行幸の松

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