平成17年8月8日朝、永田町で郵政狂想曲の最終楽章が演奏され始めた時分、呉竹会の集まりに出席すべく和歌山から空路上京した臼井康浩、江川智之両兄との会合を一時間間違えて記憶していた私は、取るものも取りあえず九段下へ向かった。

 地方から仲間が上京すると、靖国神社の茶店で待ち合わせするのが慣習になっている。しかし、混迷の時局、紀州衆の二人は特に昇殿参拝を所望していた。私は言うなればおまけである。にもかかわらず呉竹会つながりの権禰宜・野田安平さんは律儀な方で、「かまいません。あんなやつは抛っておいて、昇殿しませう」と至極まっとうな良識を披瀝する臼井兄を制し、東京人でありながら三十分も遅刻した不届き者の到着を待っていてくださった。

 そして、しばし雑談を続けた後、いよいよ昇殿。撮影できるのは手水舎まで・・・
 

 参拝が済むと、本殿北側の招魂社跡を見学する。ひっそりとしたたたずまいだが、ここは肉体が文字通り水漬く屍草むす屍となった魂魄が還って来る、靖国神社の「凱旋門」なのである。


 考えてみると、遊就館をじっくり観た記憶は中学時代まで遡る。その後も十回以上は訪れているけれど、いつも人の案内に終始したり、当座の調べごとの対象だけ観ていたような気がする。実際、この施設を丹念に検分しようと思ったら、一日を費やす覚悟が必要だろう。
 三機の残骸から組み立てた零戦五十二型に最敬礼・・・後家合わせだろうが、なんだろうが、いつ見ても美しい飛行機である。

 展示物を吟味したり、説明パネル、上映フィルムの作成を自ら手がけられてきた野田さんの懇ろな案内を受け、普段とは違った角度から遊就館を見聞できたのは有意義だった。
 エレベーターを上がってきた来館者を出迎える正面の小さな「兵士の像」、そして、遊就館の名称の由来が刻まれた「ガラス屏風」の重要性を、恥ずかしながら、初めて知った・・・

 屏風にいわく、

   君子は居るに
   必ず郷を撰び
   遊ぶに必ず士に就く

       − 荀子 勧学篇 −



 展示物の撮影は、ここまでが限界。いちおう野田さんに「特別のお目こぼしを賜れないでせうか」とデジカメをちらつかせながら、声を潜めて訊ねると、にべもなく、「私がいない時にやってもらうしかありませんね」との由。現にインターネットでは、撮影禁止区域の画像を、あっちこっちのサイトで見つけることができる。現実の要諦であろう。


 智恵子は光太郎に「東京には空がない」と言ったそうだが、関西には美味い蕎麦屋がないらしい。遅めの昼飯か、早めの夕飯か、紀州の人たちは蕎麦を食うため神田須田町までタクシーを飛ばす。私は亡祖父から、蕎麦を汁に四分の一以上浸すやつは野暮天、と厳しく躾けられたため、蕎麦というものは本来「味気ない食い物」というトラウマがあるけれど、関西の人がわざわざ蕎麦を召し上がるというのに「嫌だ」とは言えない。それでもって、瞼に描いた深川の空にむかって「野暮天御免」と手を合わせ、たっぷり、びちゃびちゃに汁に浸して食うと、こいつが滅法美味かった。
 熱い風呂に入っても「ぬるい」と言わなければならないとか、「貧乏はするもんじゃねえ。味わうもんだ」と啖呵を切らなきゃならないとか、江戸の粋とは一言を以ってすれば「やせ我慢の文化」である。・・・ばかだよな〜。




 


その夜・・・呉竹会の様子(アルカディア市ヶ谷/鳳凰の間)



 


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